アジア人としての自覚

 学校が始まり、今までのテレビ漬け、映画漬け、自炊の生活から、ガラッと変わり、テレビはほとんど見なくなった。映画はたまに行っている。昨日はチャイナタウンで「クレイマークレイマー」を観た。日本で見た「クレイマークレイマー」は、右側に字幕があったが、下に字幕の中国語が出て、俳優はもちろん英語を喋るのだが、一味違う感じを味わった。もう1本、香港の映画で、青春コメディのようなもので、筋は3人の若い男が3人の若い女性を追うというバカバカしい、恋の駆け引き(ゲーム)なのだが、心の中では悲しいが表面的には笑ってごまかすという寅さん的Japanese smileが日本と同じで、民族性というものは面白いものだ。「好きだ」と言えない、顔で笑って心で泣いてという「腹芸」は西洋人には通用しないが、アジア的な共通性を感じた。
 クラスでは、自分はつくづくアジア人、日本人だと痛感させられる。
 西洋の人間は、ディベート(debate)が好きで、何でも「どうして」(why?)と尋ねる。自分が納得するまで追及する。「沈黙は金なり」。沈黙している方が勝つというのは、日本くらいのものか。
 学校に対しても、大金を払っているのだから、何を与えてくれるのだと教師にも問いかける。教師の力を証明しろと言う。「私だって一生懸命やっている」という教師の説明は通用しないかのようだ。
 前にも書いたが、ジュディというカウンセラーに「義務でこちらに来た」と言ったら、笑われた。「無理やり連れてこられたのか」と言う。これじゃ落語だ。腹芸は通用しない。「もちろん強制でなく、自分の要求もある」と答えると、納得する。
 私は、セクション6というトップクラスにいるが、クラスメートの、ロシア人・ドイツ人女性・スイス人・フランス人・ブラジル人、ヴェネズエラ、チリ、香港の迫力に圧倒され、というのはみんなよく喋るから。初めの1週間目に「クラスを変えてくれ」とカウンセラーのジュディに言った。これは本音半分、甘え半分で、「大丈夫ですよ」という言葉を期待したところがある。すると、「本気か」と噴出して笑われた。「奥ゆかしさ」とか「思いやる心」というのは、なかなか西洋には通用しない。今までの英語の学習方法は、聴く力に力点を置き、話すことはバカにしていたが、誤解されっぱなしというのでは悔しいので、日本の心を、相手の土俵で伝えようと決意した。そういうことでテレビ観賞は止めて、毎日、新聞を読み、英語を喋る努力をしている。
 くそったれとぶつぶつつぶやきながら、勉強に励んでいる毎日だ。生活は慣れたが、他人にも自分にも負けたくないという気持ちでやっている。
 今日、テレサテンのテープを買った。これはなかなかいい。