「わかりやすい文章のために」本多勝一(1981)を読んだ

「わかりやすい文章のために」本多勝一(1981)

 「わかりやすい文章のために」本多勝一(1981)を読んだ。

 1981年11月20日発行。わたしのものは、同年12月18日の第2刷のもの。

 本書の目次は以下のとおり。

はじめに

一 「わかりやすい」ということ

二 かかる言葉と受ける言葉  ー「直結」の原則

三 言葉のかかる順序

四 テンの打ち方

五 「書くことがない」という悲劇

<付録Ⅰ> 法律家と文章

<付録Ⅱ> 底辺からの視点によるルポルタージュ  -西郷竹彦氏との対談

あとがき

 本書は何度でも読むべきもの。刺激的かつ役に立つ話があちこちに詰まっています。そうした紹介は割愛して、以下、ふたつだけ紹介しておきます。

 ひとつは、日本の教育問題ともいうべき「作文をきらわせる法」。もうひとつは、近現代における文字偏重のお話。

 「五 「書くことがない」という悲劇」のところで…。

 文章力の根幹は、子供が表現する喜びを持つことができるかどうかにかかっている。絵でも音楽でもそうだが、文章の場合は「書く喜び」を体得することがすべての土台である。「文章力」はその上での技術や知識なのだ。いくら書くための技術や知識を「受験」用にたたきこんで子供を虐待しても、文章力などはちっとも向上しないだろう。むしろきらわせるだけだ。(p.143)

 間接的に私の知っているある女性教師は小学校(公立)低学年の担任だが、子供に自由作文を思う存分書かせ、書かれたものを実に面白がって読み、子供たちに「面白く読んでくれた」と感じさせ、さらにドンドン書きたいように書かせる。テンやマルや字などの技術指導もむろんするが、あくまでそれは副次的なものだ。やかましくは言わぬ。字なども汚くて平気。主眼は「書きたいことを書きあらわさせる」べく、書くことに抵抗を感じなくさせ、さらに喜び(まさに創造の喜び)にまで到達させる点にある。だからこのクラスの子は、みんな大量に書き、結果として平均的に文章力のレベルが高い。

 これこそが作文なのだ。しかし、こんな先生はメッタにいない。ほとんどの先生は、子供たちに「作文をきらわせる法」を指導している。そして何よりも、今の「受験体制」価値観のモノサシだと、真に作文能力のある子が全然評価されず、漢字や文法や古典の知識の方が「国語力」として評価されている。これでは「選別」<差別>教育を助長するだけであろう。ばかばかしさもここに極まれりだ。

 (『朝日新聞』一九八〇年一二月二二日夕刊=「作文をきらわせる法」)

(p.144-p.145)

 「「書くことがない」という悲劇」のところで面白い指摘は、近現代における文字の偏重の問題です。著者は、「おわりに、「書く」ためにこの教室へ来られた方々には少し申し訳ないことを一言申上げましょう」と断りながら、以下の発言でしめくくっています。

 …何といっても「書く」こと自体はさまざまな表現ジャンルのひとつにすぎないということです。顔についている表現器具(?)からいっても、目の分野の絵画、耳の分野の音楽、口の分野の弁舌・対話、舌(味覚)の分野の料理、鼻だって香水や香があります。人類の歴史の中で字が出てくるのはごく新しいことですが、近代・現代はこれに比重が傾きすぎた。サルトルは死ぬしばらく前に目が見えなくなったとき、書けないということは考えることもできないことだと言っていました。あの気持ちはよくわかりますが、書かないで考えたソクラテス孔子ムハンマドやキリストや釈迦牟尼はどうなるのでしょう。この、少し比重が高くなりすぎた「書く」(したがって「読む」)ことに、あまりとらわれない方がいいと思うことも、ときには有効かもしれません。

(p.149)