ナターシャセブンの唄を聴いて考えた

My Favorite Things

 いま高石友也、ナターシャセブンのライブテープを聴いている。最近何故か日本語が聞きたくなる。日本語を聞いても勉強になると確信がもてた。日本語は美しいとも思う。少し前は違った印象を持っていた。
 ナターシャセブンの「街」などを聴くと本当にいいと思う。京都に行ったことがなければ、これはわからない世界だ。
 思うに、世界の人々はそれぞれ、その国の人でなければわからないものを持っている。それが民族性というものなのだろう。こうした実感は外国に来なければわかりにくい。
 「下駄の音、路地裏通り」「喫茶店」「古い美術館」「石畳」「五重の塔」「大学通り路面電車」「背の低い山」「窓越しの手まり唄」「お下げ髪の思い出」「この街が好きさ、君がいるから」…。これは日本人でないとわからない世界だろう。しかし、ユニークさを強調することは危険だ。どの国の人もどの社会の人も、そうしたものを持っているからだ。
 どの国の人も社会の人も、自分の街が好きなのだろう。良いところも悪いところも勿論ある。しかし、そこに住んでいる限り、多少悪いことも含めて好きに違いない。悪いところは簡単には認めがたいから外国人にはわかりにくい。
 言葉は空気のようなものだ。久しぶりに日本語を聞くと、本当に抵抗感がない。自由を感じる。英語は上達したとはいえ、日本語のようにはならない。フラストレーションの連続だ。大量に読まなければ語感は生まれない。
 ナターシャセブンの歌は、当たり前だが、本当にわかる。絵が見える。英語ではそうはいかない。フラストレーションを感じることが外国語の勉強になるということは理解しているのだが。
 日本語に関しては、私たちは本当に勉強したのだ。達人なのである。フラストレーションは感じない。だから、逆に見えなくなることもある。言葉に鈍感になることもある。言葉って本当に面白い。「外国語を学ぶことは母国語を学ぶことである」と言ったゲーテは正しい。外国語を学ぶことは大人がまた子どもになることだ。フラストレーションは感じるが、感性としては若返るのだろう。

 ジョギングがしたい。バンジョーが弾きたい。ピアノが弾きたい。英語を喋りたい。車を運転したい。歌がうまくなりたい。日本語でも英語でも自分の気持ちを表現したい。子ども劇場とか、コンサートとか、何か人が集まる企画をしたい。外国人を親友に持ちたい。山に登ってみたい…。