「メディアとしての博物館」梅棹忠夫(1987)の「博物館の言語ポリシー」に深く共感する

メディアとしての博物館 (1987)

 「メディアとしての博物館」梅棹忠夫(1987)を購入した。

 ざっと眺めてみて、「博物館の言語ポリシー」がとても面白かった。

 国立民族学博物館では、展示物の解説あるいは表示は、すべて日本語でおこなわれている。そのことに関して、開館当時から、入館者のあいだでも、さまざまな感想ないしは意見が表明された。「なぜ英語の表記がないのか」という質問もあれば、「英語表記がいっさいないのが、すがすがしくてよい」という意見もきかれた。

 博物館での解説や表示の言語をどうするかという点は、あんがいイージーな方法で処理されていることがおおいようだが、国立民族学博物館の場合は、こういう方針になるまでに、館内でもずいぶんと議論がおこなわれ、いろいろな見解を考慮したあげくに決定したものである。これはだから、単なるおもいつきや偶然でこうなっているのではなく、ひとつの「博物館における言語ポリシー」にもとづくものである。他の博物館においても、同種の問題があるであろうし、まったくことなるポリシーもありうるであろう。その参考にもなればさいわいとおもい、ここに収録した。

(p.136)

 

 国際的施設としての博物館において、外国人に対する言語的配慮がないというのは、たしかにいかにも不親切である。問題は、もし外国語による説明あるいは表示をおこなうとすれば、なに語をつかうべきか、というところにある。従来の一般的な慣例にしたがえば、日本では、まず第一に英語が候補にあがるであろう。しかし国際的性格をもつ博物館として、英語を使用するということの積極的な理論づけは、はたして可能であろうか。外国語には英語もあれば中国語もある。スペイン語もあればロシア語もある。そのなかで、なぜ英語だけをとりだして、日本の国立の博物館でつかわなければならないのか。理論的な理由づけはかなりむつかしかろう。

 アジア諸国においては、英語が比較的普及しているから、というひともあるが、日本の博物館でもっとも利用者がおおい外国人は、おそらくは韓国・朝鮮人である。あるいは中国系の人たちである。その人たちの便宜をかんがえれば、ハングル文字による表記か中国語がもっとも実用的ということになる。英語ばかりが国際語ではないのである。

 国立民族博物館の教官のなかには、アメリカで数年間の研究生活をおくってきたひとがすくなくない。ある意味で当然のことかもしれないが、それらの人たちのなかには、英語による説明・表記をつよく主張するひとがおおかった。ところが、館内にはアメリカ派以外のひともたくさんいる。英語ばかりが国際語ではないという感覚がひろくいきわたっていて、なかには「アメリカがえりは国際感覚がなくてこまる」という声もささやかれていた。

 さんざん議論したあげく、わたしがくだした決定は「館内からは外国語の表示をいっさい排除する」というものであった。これは国立民族学博物館を対米一辺倒ではなく、真に国際的な性格のものたらしめるために、むしろ必要なことであるとかんがえたからである。逆説的にきこえるかもしれないが、国際ということの本義からかんがえて、これでよいとおもっている。日米関係は重要ではあるが、それは日本をとりまく国際環境のなかの、ひとつの要素にしかすぎないのである。 

(p.138-p.140)

 そのほか、「訓令式」の話、「植民地」の話、「占領時代の後遺症」の話もおもしろい。そして「外国語はおそろしい」の話。

外国語はおそろしい

 もうひとつの実際的な理由は、ほんとうにただしい外国語表示が可能かどうかという問題である。言語というものは、おそるべき精密な体系であって、多少学習し、習熟したとおもっていても、正確な表現は外国人にはとてもできたものではない。

 かつて一九七〇年には、この博物館のある万博公園において、日本万国博覧会が開催された。当時、イギリスの詩人J・カーカップ氏が、その取材をしたときのことをエッセイにかいている(註1)。それによると、『公式ガイドマップ』から場内の掲示にいたるまで、その英語はあやまりにみちたものであり、まことにこっけいなものであったという。かれの指摘をよむと、こちらの顔まであかくなる。当時の主催者の日本万国博覧会協会は、もちろんかなりの準備をもってかかったのだろうが、結果としてはカーカップ氏による痛烈な批判をうけることになった。かれによれば、このような公共の場所での外国語の表示には、つぎの三原則がまもられていなければならないという。第一に、ただしくうつくしいことばでなければいけない。第二に、それをかくのは専門家の仕事である。第三に、その専門家は、その言語を母国語とするひとでなければいけない。

 (中略)

 多少外国語をやったひとは、このへんのところをかるくかんがえがちであるが、外国語をなめてはいけない。外国語はおそろしいものである。

 (後略)

 

 註1 J・カーカップ、中野道雄共著「日本人と英語」『日本人と英米人ー身ぶり・行動パターンの比較』 一四八 ー 一五五ページ 一九七三年一月 大修館書店

 (p.149-p.151)

 これは梅棹氏が展開している内容とは別の問題だが、自分の課題に引きつけていえば、梅棹忠夫氏のような独自の独創的な、じまえの思想から、教科書もつくっていく必要がある。まずは日本語でよいだろう。また、ビデオを中心とした異文化ライブラリーを設置する必要もある。