「職員会議での採決禁止」は教育の死を意味する

 私も佐藤学氏の意見に全面的に賛成で、「職員会議での採決禁止」は、学校現場の活性化につながるどころか、教育の死を意味するとさえ考えている。
 もちろん、私は、校長の決定権を否定するものではない。さらにいえば、これも当然のことだが、校長の指導性も否定しない。それどころか大いに指導性を発揮してもらいたいとも考えている。
 重要なことは、校長の資質であり、さらに重要なことは、校長の資質は、どのように育ち、鍛えられ、押し出されるのかということにある。民間選出の校長を一概に私は否定しないけれど、やはり教育現場で長年教育活動をやってきたものが中心にならざるをえないと思っている。あるいはそうした現場で鍛え上げてきた力を無視することはできないだろうと思う。そして、現場から教職員みなが認める信頼するに足る校長が選出されなければならないと考える。
 私が、「職員会議で採決禁止」問題で、一番納得できないのは、「教師こそが教育されなければならない」という教育の本質、教育の哲学を提案者が無視している点だ。
 それは、どんなに優れた校長でも、誤ることがあると思うからだ。どんなに優秀な個人でも、集団による認識力にはかなわない。
 最終責任や決定権が管理職にあることと、教職員の採決を奨励したり認めたりすることとは、別である。
 「教師こそが教育されなければならない」という点で、さらに言えば、校長も含めて教師というものは教育する立場かもしれないが、(校長からも学ぶ点は多いだろうけれど)何よりも生徒や、父母や、同僚、地域、全国の教職員仲間から学ぶことが重要だと思うからだ。
 簡単にいえば、先生は独りよがりになってはいけない。集団的に認識を深め、集団的に教育実践をして、集団的に反省をしなければならないと思うからだ。これは四半世紀という長い期間にわたって教壇に立ってきた一人の高校教師としての実感である。
 その際に、コミュニケーションをとることが大事な方法論としてあるわけだが、コミュニケーションをはかる際に、どうして、意思表明や「採決」や「多数決」を眼の敵にするのだろうか。
 今回の通達は、「今回の通知では、挙手などの方法を用いて、先生の意向をはかることも禁止した」というように、教師の意見表明権など、教師の権限を軽視・無視している点が問題だ。
 通達を出された側の東京都教育長の中村正彦氏は、紙面で「中には、生徒の進級判定や卒業認定まで、職員会議で採決している学校もあった」とあるが、生徒の進級判定や卒業判定を、どうして現場の教員集団が判断してはいけないのだろうか、私には全く理解できない。
 佐藤学氏が主張されているように、民主主義の学校でなければいけない学校で、教職員の意見表明も、採決も禁止であるならば、生徒の意見表明も、採決も禁止にならざるをえない。
 これでは教育の活性化ではなく、教育の死を意味する他ないではないか。