高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」を読んだ

ガラスのうさぎ

 高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」が関東大空襲のことを描いた本であることは知っていたけれど、残念ながらこれまで読む機会がなかった。わが家ではすでに読んでいる家族がいて、我が家の書庫にあったから、そいつを引っ張り出して読んでみた。
 高木さんの実体験を綴った「ガラスのうさぎ」を初めて読んでみて、高木さんが3月10日の東京大空襲で、彼女の母親、そして二人の妹を失ったことを知った。さらに悲しいことに、新潟に疎開しようと準備をしている間に、米軍艦載機P51という小型戦闘機の機銃掃射で、最愛の父親をも失ってしまう。
 彼女が13歳の頃の話だ。
 二人の兄は、特攻隊院になったり、台湾へ出兵したりと、不在だったから、幼い彼女は、父親の葬儀を一人でおこなわざるをえなかった。
 こうした辛酸をなめた彼女は、「ガラスのうさぎ」の最後の方で、次のように書かれている。
 「昭和二十二年(一九四七)五月三日、わたしはこの日を一生涯わすれないだろう。この日、日本国新憲法が施行された。新聞の中に書かれた全文の中で、わたしは第二章、戦争の放棄という言葉にすいつけられた」として、憲法の「戦争の放棄」が引用されている。両親と二人の妹を亡くした辛く悲しい彼女にあって、憲法が希望であったのだ。
 続けて、彼女は、次のように書いている。
 「この文面は、わたしにとって、まさに輝く太陽のように、まぶしく見えた。これなんだ、もうわたしたち国民は永久に戦争を放棄したのだ。よく、歴史はくり返されるという。しかし日本の歴史はじまって以来、初めて日本は外国に負けたのだ。連合軍という名の外国の軍隊が日本を占領した。たしかに、いくさに負けたことは、くやしいし、なさけない。その上、たくさんの犠牲者を出した。 だけど、それによって、永久に戦争はしないということを憲法に定めることが出来たのだ。日本だけでなく、相手国もきっときっと、数えきれないほどの被害と、悲しみを受けたであろう。わたしのように両親をなくした子もいるだろう。戦争によって利益をこうむった人は、ほんのひとにぎりの人たちだ。 わたしは生きている限り、この憲法を守りつづけたい。そしてわたしの次の世代、またその次の世代へと、この悲しみを伝えていきたいと思った。二度と戦争をくり返さないために」。
 この本が出版されたのは、1977年のことである。憲法ができてから30年後のことだ。そして、この本が出版されてから、また30年が経った。戦争は全てを奪い去ったけれども、平和憲法を残したとは、よく言われる話だ。でも、その平和憲法が崖っぷちの今、あまりにも私たちは物忘れが激しいのではないかと言わざるをえない。
 平和への誓いを新たにするために、辛い戦争体験は、どうしても語り継がねばならない。その意味で、「ガラスのうさぎ」は是非とも若い人たちに読んでもらいたい一冊だ。