大学時代の恩師に会う

 大学では、師匠と呼べる先生、親友と呼べる友達、背筋が震えるほどの著作、この三つに出会えたら、その人は幸運な人ですと、高校教師の私は生徒に言い続けてきた。大学4年間が終わっても、これら三つを手に入れることはそんなに簡単なことではないと思うからだ。
 幸運なことに私はその三つとも手にしている。
 そしてその三つは、わたしの恩師が担当するゼミナールだけで全て出会うことができて手にすることができたのだから、このゼミナールを抜きにして私の学生時代を語ることはできない。
 大学を卒業してからも、このゼミ生たちのつき合いは継続し、私にとってこの貴重な交流は、かれこれ34年にもなる。それで毎年欠かさずに語り合っている。私にとって大切な仲間たちであり、まさにこれは親戚以上のつき合いと言える。
 ゼミの思い出を少し書くと、すぐに浮かぶ心象風景は、私たちゼミ生が討論をしているときに窓の外を黙って見ておられた先生の姿だ。私たちゼミ生は、結構討論になっているかなと勝手に思いこんでいたのだが、先生は、キャンパスを眺めながら、われわれゼミ生の頭の状況を憂えていたに違いない。とどのつまり空中戦をやっていたわれわれの討論状況を呆れて観察されていたであろうことは想像に難くない。
 先生はあまり多くを語らなかったけれど、語るときは、われわれの弱点を明確に突いていた。悔しいけれど先生の日本語は素晴らしい日本語だった。
 私は先生の知性の鋭さを恐れ、語らぬ先生の沈黙からも学ばざるをえなかった。
 教育は、コトバを発して、学生に刺激を与えたり、ときに学生を批判したり、励ましたりするものだ。ただ、熱心にコトバを発しても、学生の心に届かぬこともある。コトバを発せずとも、学生に自覚させるというのは、いわば高段者のレベルにあるのだが、その点、先生には、言葉を発せずとも学生に語ることのできる、鋭さと静かな気迫とがあった。
 卒業論文を書かなければならなかったときに、うまく書けずに悔しい思いをした苦い思い出が私にはあるのだが、モノを書くということでは、君たちは書くというより、恥を書くということですと、先生は初めから見通されていて、事実、毎週われわれにレポートを課されていた。
 そうした物言いの先生に著作は少ない。
 あるとき、生意気にも私は、先生にもっと書いて欲しいとお願いしたことがある。
 先生は、あまり明確なことを言わなかったけれど、そうですか、なるべく書くようにしますと小声で言われた。今では、先生は、先生の沈黙も含めて私たちに多くを語ってくれたから、モノを書かずともよいと思っている。それは先生の生き方、先生の生活のスタイルの問題であるような気もしているからだ。
 ところで、私はゼミに在籍しながらも恩師の学部の学生ではなかった。英文科の学生であったのだが、自分の受けてきた高校までの教育というものが何なのか、深い疑問があり、それで別の看板を掲げた研究室のドアを叩き、先生の門下生となったのだった。
 いま私は私自身教師となり、その教職歴も30年近くになろうとしているが、教師としての私の原型は、確実にこのゼミで育てられたと思っている。高校で教師をしているが、ゼミで少しは鍛えられた社会観や世界観が、私の仕事の土台になっている。だからこそ、先生には感謝しても感謝しきれない思いが私にはあるのである。