私の英語とのこれまでの向き合い方

 現在わたしは英語教師をしているくらいだから、学生のとき、とりわけ高校時代、英語は嫌いではなかった。自分のコトバよりも他人のコトバの方に興味があるというのだから、そもそもが自己否定型、もしくは逃避型であったのだろう。
 地元の公立中学校から都立高校に進学し、高校時代は、コトバのセンスのある英語教師から英語を習うこともできた。
 ところが大学時代は、自分が経験してきた学校教育について、何か違うのではないかと、教育や、哲学や思想の方に興味がうつっていったから、文学部英文学科に在籍していたけれど、英語はほとんど勉強しなかった。
 奇跡的に英語教師という職を得てからは、本格的に英語と自分なりに格闘し始めたが、日常生活にほとんど関係がないものを必死に学ぶことへのフラストレーションを感じることとなった。やっても、やっても英語は逃げていくばかり。そうした焦燥感もあって、真剣に英語を学び始めてからというもの、心穏やかになれたことがなかった。
 日本国内では英語は生活に関係のない言語だが、インターネットや海外の英語圏は英語のフィールドだ。英語を学ぶ意義らしきものは、こうしたフィールドで初めて体感できる。海外への旅やインターネットに私が惹かれたのもこうした経緯があるのだが、やはりこれらも非日常的世界であることに違いはない。
 だから私は、自分の子どもに英語をやった方がいいというようなことを言ったことがない。なんというのか、英語をやって幸せな心理状態になれるのかとの疑問を抱き続けてきたからだ。
 それで、私の娘も息子も、ごく普通に公立中学校から英語を学び始めた。
 アイルランドに行ってみたいという娘の希望もあって、1999年にレンタカーを借りて家族でアイルランドをまわったことがある。娘とは2001年に一緒にハワイ島をまわったこともあるけれど、彼女は、一人でカナダでホームステイをしたり、コンチキという格安バス旅行でヨーロッパを回ったり、フィリピンやタイに滞在したりして、最近では、私とすれ違いで一年間ニュージーランドに滞在したりした。
 こうした計画の実行は、彼女が自分の意志で決めたことだ。私の忠告や進言からのことではない。彼女がニュージーランドに留学したいと希望したときも、私はその目的を意地悪く問い詰めたことがあるほどだ。