「『三酔人経綸問答』というのは、実は登場人物が四人なんです」(松永昌三)

日本人は何を考えてきたのか 明治編


 「三酔人経綸問答 (岩波文庫)」を読んでみて、先日読み終えた「日本人は何を考えてきたのか 明治編 文明の扉を開く」の「福澤諭吉中江兆民」の第一章をあらてめて再読してみた。
 次の松永昌三氏の見解は、桑原武夫も同様の解釈を解説で述べていた。
 これはすでに紹介した。



 三人の考え方すべてが兆民のなかにあるということですね。もうひとつの読み方としては、日本がこれから進んでいくうえで三つの方法が考えられるということを書いた作品とも言えます。


 民主主義や人権擁護の社会を実現するための討論の重要性は当然のことで、以下の松永昌三氏の解説も当然といえば当然のことなのだろう。
 それが「三酔人経綸問答」のスタイルになっている。

 兆民の長編論説には、複数の意見、複数の人物が出てきて意見を闘わせるという形式が多い。「国会問答」(『東洋自由新聞』)「国会論」(『東雲新聞』)「選挙人目ざまし」などもそうですね。兆民の考えでは、真理は複数の意見が調和して生まれてくるものではなく、複数の意見を激しく闘わせるなかから生まれてくるものなんです。それは福澤にも共通する部分です。(略)「多事争論」ですね。


 「三酔人経綸問答」の「恩寵の民権から回復の民権へ」のところで、兆民自身が「(この一段の文章は)少しく自慢なり」と書かれている箇所について、なるほどと思える松永昌三氏の興味深い論評があった。
 

(「三酔人経綸問答」で一般に誤解されていることのひとつは、兆民が南海先生であるという誤解である。そのことを受けて)
 そうですね。ただ、おそらく当時の兆民は南海先生の考え方を選択したであろうということは考えられます。この作品の最後のほうに、「恩賜の民権から回復の民権へ」という言葉が出てきますが、その部分には「(この一段の文章は)少しく自慢あり」と書かれています。各節の上に目次のような短いコメントが記してあるんです。ですから『三酔人経綸問答』というのは、実は登場人物が四人なんです。この「恩賜の民権から回復の民権へ」というのが兆民が一番言いたかったことでした。間もなく発布されるであろう明治憲法は欽定憲法ですから、「恩賜の民権」です。それをいかに人民の憲法に変えていくのかが、第一議会までの彼の課題だった。その意味で兆民は、ものすごく時代に敏感であったと言えます。


 みられるように、兆民は、民権には、「イギリスやフランスの民権」のように「下からすすんで取った」「回復の民権」ともいうべきものと、「上から恵み与えられる」「恩賜の民権」とでもいうべきものとがあると考えていた。兆民は、「憲法の点閲」をして、「恩賜の民権」であっても「回復の民権」へと肥えふとらせることが重要な課題であると認識していた。
 政治家としての兆民は、自由党に参加し、綱領・党議の起草にあたり、国会で憲法を点閲するために、衆議院議員選挙に立候補し当選するが、1890年、第一回帝国議会が招集された翌年、予算削減問題での立憲自由党の姿勢に呆れ、議員を辞職してしまう。
 晩年の兆民は次のことばを残している。

 わが日本古より今に至るまで哲学なし


 松永昌三氏は、この兆民のことばに対して次のように述べている。


 この言葉が書かれている『一年有半』の中に、日本人は利益には敏感だけれども、理義には鈍感である、といった意味の言葉があります。「わが邦人は利害に明にして、理義に暗し」と。この言葉と「わが日本古より今に至るまで哲学なし」という言葉が重なっていると私は思います。哲学というのは、要するに深く考えるということですね。まず、あるべきこと、あるべき理想が何であるかを深く考えて、それを目標にしながら現実のわれわれはどう生きていくのかを考えていく。逆に、現実を先に考えてしまうとどうしても妥協するということにつながってしまうわけです。あるべきものは何であるかということをきちんと押さえ、そこから現実をどう解決していくか。これが、彼が考える哲学ということではないでしょうか。


 福澤諭吉中江兆民も、1901年(明治34年)に亡くなっている。
 福澤は自らの人生を振り返って、「遺憾なきのみか愉快なことばかりである」と「福翁自伝」の中で語っている。一方、兆民は、「余明治の社会において常に甚不満なり」と書いた。いかにも、「哲学なき人民は、何事を為すも深遠の意なくして、浅薄を免れず」と、晩年に喝破した兆民らしい。