岡本太郎の「今日の芸術」を読んだ

amamu2013-04-11

 「青春ピカソ (新潮文庫)」をある美術館でたまたま手にして、岡本太郎の面白さに目覚め、「今日の芸術―時代を創造するものは誰か (光文社知恵の森文庫)」を読んでみた。
 見出しから少しひろってみると、見出しだけでも興味が尽きない。
 「アヴァンギャルドモダニズム」。
 岡本は、印象派創始者と呼ばれるセザンヌのことを「ヘッポコ絵描きセザンヌ」といい、ゴッホのことを「素人画家ゴッホ」という。
 時代認識も、「貴族から市民の芸術へ」。「名人芸のいらない時代」、「だれでも描けるし、描かねばならない」時代。
 「自由」とは何か。「デタラメがなぜ描けないか」。「子どもの自由と芸術家の自由」。「技術と技能」の違い。
 「芸術は決意の問題」。
 岡本が書いてることは、どれも面白い。
 こうしたすごい本が1954年に書かれたことに驚かされる。
 フランスに10年ほどいて、大学にも通って、哲学・社会学民俗学を学んだというから、「対話と討論」を通じて、自分の思想を深化させていったのだろう。
 「自分がやると公言すること」など、主体性論としても学ぶべきところが多い。
 ただし一点だけ気になった。
 この素晴らしい本の最後のほうで、「この原子力時代のはげしい現代生活」という岡本の進歩主義者を気取るような記述に、歴史的限界が感じられた印象を受けた。

 1954年3月1日は、ビキニ環礁で、アメリカの水爆実験による第五福竜丸の被曝事故が起こるのだが、その3月2日に、日本で初めて原子力予算が提案され、成立する。
 岡本太郎の、この本の「初版の序」には、「一九五四年八月」とあるから、岡本太郎は当然、ビキニ事件は知っていたはずだ。
 その点では、本の最後の方の、現代的な課題についての記述と思考の正確さに難点があると言えるのかもしれない。
 岡本はレトリックとして言っているので、そんなに目くじらを立てる必要もないのだが、論として雑な印象を受けたのも正直なところだ。
 ただ、あの「太陽の塔」がつくられた同時期に、メキシコで並行的に描かれた「明日の神話」は、核や原爆を意識して作られた絵画であるというから、以上の俺の指摘は全くズレているのかもしれない。


 それはともかく、絵画に関して、子どもの頃から俺が疑問に思っていたことに、この本は答えてくれている。
 岡本太郎は、間違いなく芸術を運動としてとらえている。
 岡本太郎が書いていることは、歴史的であり、弁証法的であり、科学的だ。それが芸術論を語るのだから、無敵である。
 そして、当時の、そして今も、岡本太郎のような個性が、正しく評価される環境、その余地がどれほど、この日本において広がっているのか、狭くなっているのか、それが問題なのだろう。
 子どものときは、誰でも絵を描いていたことだろう。絵を描くことが好きだったろう。俺もそうした子どもの一人だった。
 その意味では、芸術は人生そのものであり、人生は芸術そのものなのだろう。
 もし岡本太郎のような絵の先生に習っていたら、俺は絵描きになっていたかもしれない。また、すぐにでも再び俺も絵を描いてみたいと思わせるほど、本書が面白い本であることに違いはない。