「人を動かすスピーチ」が特集の「考える人」を買った

考える人

 教師をしているくらいだから話は得意である。
 そう言いたいところだが、希望に反して、私の場合そんなことはまるでない。
 そんなことはないどころか、全くもって下手くそである。
 では何故教師になんかなったのかと言われそうだが、その理由は簡単明瞭。
 話が得意だから教師になったのでも、上手く話をしたいがために教師になったのでもないからだ。
 ではなんなんだと問われれば、人間とは何か、教育とは何か、社会とは何か、理想とは何かという問いを自分なりに考え、自分なりに深めたかったからなのだろう。少しかっこ良すぎるが、そんな感じだったというのが正直なところだ。
 それで、こうした問いに対する答えは、言うまでもなく簡単には見つからないから、いつまでも答えられない。つまり、学び続けるしかない。
 ここから、学ぶことや知ることや考えることが好きになってきた。というか生きる姿勢として日常的なものとなってしまった。
 学生時代も多少は好きだったが、教師になってからは自分の好きなように学ぶことができるから、大学を卒業してから、ますます本を読んだり考えることが好きになってきた。
 最近つくづく思うのだが、なかなか解決できない問いをもつということは悪くないのではないか。それはいつまでも精神的に若い気持ちでいられるからだ。
 趣味も、簡単に深められるものでなく奥の深いものを趣味として選んだほうがよいということと、これは同じことなのかもしれない。

 さて、私の場合、大変申し訳ないが、ここでようやく生徒が出てくる。
 よく言えば、ともに学ぶということだが、教師という存在は、生徒がいなければ教師然としてられないから、生徒のほうはいい迷惑であろう。
 俺が中途半端に聞きかじったこと、学び知ったことを聞かされることになる。
 実はいまどき、一方的な講義式の授業は、これもはやらないのだが。

 決して話はうまくないけれど、授業で話をすることは嫌いではない。それは自分が学んだ材料を生徒に話をする機会が与えられるからである。これは、とくに俺の話を聞いてくれる場合、そうである。聞いてくれなければ、もちろん嫌になるのは、みなさんと同様で、その意味でたいへん我儘な話し手ではあるけれど、話をするのは嫌いではない。(このブログもそうした意味合いがあるのだろう。)聞く方にとってみれば、迷惑であろうが。

 ところで、授業であれば、たとえ言い忘れても、生徒は明日また学校にやってくる。授業の話やホームルームの話であれば、一回一回の話は完結しなくてもよいことになる。
 教育はタイミングをはかることが大切で、あの生徒にいつか注意をしてあげようと思っていても、やみくもに言ってもだめで、タイミングが重要なことくらい、俺にもわかっている。それは教師にとってのイロハである。
 また担任と生徒ということになれば、必要不可欠な信頼関係さえつくることができれば、多少話が下手でも、生徒は我慢して聞いてくれる。そのようになるものだ。
 だから、教師であるからといって話が上手いとは限らない。教師といえども話なんかうまくならない。それでもいい教師にはなれる。
 だいたい、話べたでも、よい教師はいるものだ。

 これが、パブリックスピーチになれば、ますますそうで、そもそもパブリックスピーチと辻説法的な授業とはまるで違うものだから、教師といえどもパブリックスピーチの上手い人と下手な人に分かれることになる。
 それで私の場合は、断然後者ということになる。

 パブリックスピーチの難しさとは、まず聴衆との関係でいえば、よほどの人気者や権威でなければ、聞いてもらえないということだ。
 その場に居合わせている聴衆の分析がまず難しいということが指摘できるだろう。
 結婚式でお酒が入ったりすれば、聞いてもらえる余地はない。それでそれを乗り越えて話をしようという情熱がこちらには全くない。

 だから、パブリックスピーチの場合、その場をみんなで共有できるものにしなければならないという意味で、その場をコミュニティにできる力量がいる。これは俺の手に余る。

 これまで俺は一度も新潮社の「考える人」という季刊誌を買ったことはないが、今回の特集は「人を動かすスピーチ」とある。
 多少は参考になることも書いてあるかもしれぬと購入してみた。(学ぶことは、好きなのだ)

 スピーチといえば、マーチンルーサーキングジュニアの"I have a dream"のスピーチやチャールズ・チャップリンの「独裁者」の演説など、英語教材になっているものも少なくない。最近では、TEDを知る人も増えてきた。
 いまこの「考える人」を読んでいる最中だが、面白いし、ためになる。
 だからといって、俺のスピーチが上手くなるかどうかは、まったく心もとないのだが。