教師が育つには、長い時間がかかるということは知っていていいことだ。
教師は、全人格的成長をとげないといけない存在だ。若いときからすでに完成されている教師もいるかもしれないが、その数は少ない。ただし、いくら若いから、未熟だからといって、誠実でなくてはならないなど、教師としての資質、その根っこを姿勢として持っていないといけない。そして常に研鑽を積まなければならない。そのことを土台として、常に学ぶことを忘れてはいけない。教師みずからが教育されなければならないと前に書いたが、なにしろ教師が学ぶことを忘れてはおしまいなのである。
私見によれば、高校教師の場合、学ぶことは三つある。
ひとつは、人間としての学びである。二つには、教科教育の力である。最後の一つは、生徒を分析する力である。
繰り返すけれど、最初から教師らしい教師はいない。教師は、教師になるのである。つまり、その点では、いい教師は生徒がつくるものなのだ。
また、いい教師は教師集団の中で育つものである。
若手教員がベテラン教師から学ぶことは少なくない。いい教師は、教師集団の中で育つのである。
すぐれた教師が一人育つためには、こうして長い時間がかかるものなのだ。
免許更新制度などよりも、生徒と接する時間を確保するための制度的保障、すなわち教職員の量的確保や、教師一人ひとりの研修制度の充実、そして教師集団の自主性を重んじなければならない理由がここにある。