「ドキュメンタリー映画監督、ジャン・ユンカーマン」

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 以下、朝日新聞デジタル版(2015年9月1日16時30分)から。
 昨日の夕刊で読んだが、ドキュメンタリー映画監督のジャン・ユンカーマン(63歳)さんの「わたしの半生」が連載されている。全10回のようだ。

 ■父のニコンが残した葉山と家族の記録

 ――生まれたのは、どんなところですか。

 日本の皆さんに出身地を聞かれ「ミルウォーキー」と答えると「ああ、ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキーのね」とかつてのサッポロビールのキャッチコピーの話をして、笑顔になります。ビール生産で有名ですよ。イリノイ州のシカゴにも近い、ウィスコンシン州最大の都市です。実家は郊外にあり、緑が多くのどかですよ。

 ――家族の歴史を教えてください。

 故郷がビール生産地ということからわかるように父はドイツ系で、内科医。祖父は実業家。母はウェールズ系で、教師。祖父は画家です。両親は高校のクラスメートで、第2次大戦終戦直前に結婚したんです。父はその時大学の医学部生でした。僕には、5歳年上の姉と4歳上の兄、そして一つ下の弟がいます。

 ――早くから日本と縁ができたのですね。

 父が1952年5月に米軍横須賀基地海軍病院に配属されました。連合国軍による日本占領が終わった直後で、朝鮮戦争の最中(さなか)でした。当時父は、28歳。階級は大尉。僕は、母のおなかの中にいました。8月に生まれ、11月末に僕たちは家族で父のいる日本に向かい、神奈川県葉山町の一軒家を借りて暮らし始めました。翌53年に朝鮮戦争が終わり、除隊した父とともに米国に帰るまで、9カ月間を過ごしたんです。

 そこには、住み込みの家政婦さんがいて、みんな「オバサン」と呼んでました。近所の「ミツコ」という10代の少女も子守の手伝いに来てくれていました。海がすぐそばにあり、姉や兄はすぐ地元の漁師と顔なじみになり、父は基地の売店で買ったニコン製のカメラで休みの日を利用しては撮影に歩き回った。田植えや稲刈り、祭りなど四季折々に繰り広げられる行事と自然の風景が忘れられません。思い出の地になったんです。

 ――どんな子どもでした。

 幼い頃は、特に野球少年で、57、58年にミルウォーキーブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)がワールドシリーズに進出した時は「野球熱」に浮かされました。今もそれは続いています。

 ――映像やジャーナリズムにつながる体験はあったのですか。

 朝鮮戦争当時、前線から横須賀基地に送られてくる写真の画質が高く、それが日本のニコンのレンズで撮影されたという事実に、アメリカの新聞社がどれほど驚いたか。この「ニコン神話」を、父はよく話していました。横須賀時代、コダックのコダクロームというカラーフィルムで父が撮り続けた約600枚のスライド写真は宝です。紙芝居に群がる子どもたち、ちょうちん、げた、刺し身を売る店……。戦後の日本の姿と僕の家族をリンクさせた記録です。帰国後父は家族をリビングに集めてはスライドの上映会を開いて詳しく解説してくれました。私をドキュメンタリーの監督に導いてくれたのは、今思えばこのスライドだったかもしれません。

 (聞き手・梶山天)=全10回