「(改憲の足音:1)絵を描く未来、奪った戦争 学生の遺作語る、異論封じた時代」

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 美術館「無言館」。
 その名は聞いたことがあるが、まだ訪れたことはない。
 以下、朝日新聞デジタル版(2018年1月8日05時00分)から。

 戦後日本の針路だった憲法9条の改正が、現実味を帯びて語られ始めた。私たちはどこへ向かおうとしているのか。「絵を描き続けたい」。そんな思いを胸に抱きながら、命を落とした画学生の絵を通じて考えたい。

 (編集委員・豊秀一)

 長野県上田市郊外の丘の上に、戦没画学生たちの遺作を集めた美術館「無言館」がある。中へ入るとすぐ左手に、裸婦の油彩画が目に入る。右ひざを立て、裸の胸を抱えている。

 「霜子(しもこ)」

 絵を描いたのは中村萬平(まんぺい)さん。東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、学校でモデルをしていた霜子さんと結婚した。1942年2月に陸軍に入り、43年8月に内モンゴル野戦病院で病死した。26歳だった。この絵は出征前の萬平さんが妻を描いた作品だ。

 「死を覚悟し、戦争に行く前に父が描いたのは、母という身近で最も大切な存在でした」。一人息子の中村暁介(ぎょうすけ)さん(75)=浜松市=は言う。

 暁介さんは両親を知らない。父が陸軍へ行った直後に、母は暁介さんを産んで体調が悪化。1カ月もしないうちに亡くなった。萬平さんが妻の死を悼んだ手紙が残る。

 《三月三日の朝四時との事でしたが、私もその朝、小便におきて、いつにない大きな月が私のこころをひきつけました。しばらくながめていましたが、あれが霜子だったのですね。霜子は私の事を太陽にたとえて歌をつくったり、尊敬もしてくれました。それで自分が月になって私に別れに来ました》

 母に続いて父を亡くし、45年末に祖父も病死。祖母が駄菓子屋などを営みながら、暁介さんを育てた。「あんなに立派で優秀な子はいなかった」が口癖。モデルの母と父との結婚に反対だった祖母は、母のことは語らなかった。

    *

 戦後も30年がたとうとしていたころ。押し入れの古い包みから油絵が出てきた。遺作「霜子」だ。その数年前に亡くなった祖母がしまっていた。「最初はだれを描いているかわからなかったが、後に母だと知った」と暁介さんは振り返る。

 無言館が開設されたのは97年5月。それから20年、「霜子」は、訪れた100万を超える人たちを見つめてきた。

 「彼らが絵を描いた時代があり、戦争が表現者である彼らの尊厳を奪った。このことを私たちは忘れてはなりません」。館主の窪島誠一郎さん(76)は、社会の空気の変化にそんな思いを強くしている。

 3年かけて画学生らの遺族を訪ね、遺作や遺品を集め、無言館を建設したのは50代の頃。協力に応じてくれた遺族の多くがその後、この世を去った。遺族を集めて毎年6月に行ってきた「無言忌」も、昨年の20回目で一区切りとした。

 窪島さんは自身を「敗戦の対価としての戦後の高度成長を食べて生きた『ノホホン組』」という。この国は戦争の犠牲のうえに日本国憲法を手にし、憲法9条を掲げ、まがりなりにも平和国家の道を歩んできた。その先行きが危うい。

 「310万人の戦没者を出したあの戦争と、だれ一人無関係ではない。多くの犠牲とひきかえに戦後耕してきた歴史を失ってよいのか、その意味を考えてほしい」と窪島さんは訴える。

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 無言館設立のきっかけは、東京芸術大名誉教授で画家の野見山暁治(ぎょうじ)さん(97)との出会いだった。野見山さんは70年代、遺族を訪ね歩き、「祈りの画集 戦没画学生の記録」(日本放送出版協会)を出版。「自分の何倍もの才能ある仲間が、たくさん戦死してしまった」。その言葉が窪島さんの心を揺さぶった。

 「あの狂気の時代をかいくぐった人間として、ああいう時代が待ち伏せている、いつかあれにやられるという不安が抜けないできた」。野見山さんは、そう語る。旧満州に派遣され、肺の病気で生死をさまよって内地に送還され、福岡の療養所で敗戦を迎えた。先輩だった萬平さんを慕い、「よく後にくっついて飲んでいた」という。

 「下手だと感じていた画学生の絵も最近、良く見えるようになった。死ぬまでの執行猶予を与えられ、ひたむきに生き、絵を描いた時代が伝わってくる。大きな流れにのみ込まれ、異論が封じ込まれ、社会が一気に変わってしまう。それは過去の話ではない」

 開館以来、無言忌に参加してきた暁介さん。昨年、発言を求められてこう語った。「希望してきた方向と時代がずれてきた。一人ひとりの戦没画学生の気持ちはわからない。しかし、若者には絵を見て、感じて欲しい。彼らがどんな思いで絵を描いたか」

 ◇安倍晋三首相は昨年5月、憲法9条への自衛隊明記などを掲げ、五輪が開催される2020年の改正憲法施行のメッセージを出した。自民党は今、今年中の国会による憲法改正案の発議と、その先の国民投票をめざす。改正案を認めるかは、主権者である私たち一人ひとりの判断だ。戦争による犠牲と9条、自衛隊の役割、改憲派の真の狙い……。議論が本格化する前に、足元を見つめたい。