「残さなければならない思い 山寺の石碑に刻んだ憲法9条」

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以下、朝日新聞デジタル版(2021/5/3 18:00)から。

 長野県北部、中野市の山寺の境内にひっそりたたずむ石碑がある。前住職の萩原宣章(のぶあき)さん(77)が20年ほど前に建てたものだ。そこには、寺がたどった歴史への思いが刻まれている。

 標高1351メートルの高社山(こうしゃさん)のふもとにある谷厳寺(こくごんじ)。境内にある駐車場の隅に高さ約2メートル、幅約90センチの御影石が立つ。刻まれているのは、「戦争の放棄」という言葉と共に憲法9条の全文、平和を象徴するハトの絵だ。

 戦時中の1944年6月、政府は学童疎開を進め、少なくとも全国13都市の児童40万人が学校単位で疎開。長野県には温泉地などを中心に3万人近い子どもがやってきたとされる。

 谷厳寺にも東京都足立区の国民学校から女児約40人が来た。萩原さんが祖父から聞いた話によると、女児らは地元の学校に通いながら、勤労奉仕で家畜のえさになる草集めなどをした。鐘や火鉢、米を供出した寺で子どもたちが口に出来たのは芋。夕方になると、山門の石段に座って親元の東京の方角をじっと眺めていたという。

 女児らが東京に戻ったのは終戦直後。それから約50年後、中野市疎開体験者を招いた催しがあった際、谷厳寺を当時の女児ら10人ほどが訪れた。寝泊まりに使っていた衆寮などを見て回った。境内で風呂釜に入ったことを思い出し、「今じゃ考えられないよ」と話す人もいた。

 外で裸になる恥ずかしさも、親に会えないさみしさも、空腹によるひもじさも、子どもが口にできない時代があったのだ――。萩原さんは思った。

 97年、「疎開児童の碑」を本堂の横に建てた。「子どもが本音をかくして生きる時代を二度とつくらないため(中略)疎開者名を深く刻み、永劫の平和を希求し、ここに絆の碑を建立する」と刻んだ。彼女らが故郷を眺めた山門や芋の絵とともに。裏には確認がとれた29人の名前を入れた。

 女性たちとはしばらく交流が続いた。碑を見に来た1人から「名前を残してくれてありがとう」と言われたこともあったという。数年後、「もう一つ、残さなければいけないものがある」と建てたのが、9条の碑だった。非戦の希望そのものだと考えたからだ。

 案内板もなく、大半の人は気づかない。護憲派のグループが時折そこで催しを開くことがあるが萩原さん自身は関わらない。たまに由来を尋ねられても、「好きに見ていってよ」と話す程度だ。何かを感じる人がいれば、それで十分。声高に語るつもりはない。

 ただ、萩原さんはこう考えている。「一方が拳を握ると、相手も拳を握る。でも、片方でも拳を広げていたら、戦争にはならない。それが不戦を誓った9条だ。すばらしいことだと思うよ。コロナ下で自由がないけど、戦争ってのはもっとひどいのだから」

 春先は樹齢400年以上とされるシダレザクラソメイヨシノなどが華麗な花を咲かせる。これから先は萩原さんが植えたアジサイが境内を彩る。季節ごとに、たくさんの人が花を見に訪れるという。(清水大輔