映画「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、高校を舞台にした青春映画だ。
甲子園をめざす硬式野球部員3名が、ひょんなことから高校演劇部員として、ボクサーを主人公とするお芝居の舞台に立つはめになる。大事件が起こるわけでもなく地味な映画なのだが、「野球部員、演劇の舞台に立つ」は、品のあるユーモアにあふれた、同世代の高校生の仲間たちと大人たちによる青春応援歌になっている。
私事になるが、私は、甲子園にも出場したことのある硬式野球部を擁する私大付属校に38年間勤めてきた。バスを4、50台も連ねて甲子園に応援に行ったこともある。教師として長年高校生を観察してきた経験からすると、この映画は、私の眼の前にあらわれてきた硬式野球部員を見ている気にさせてくれる。普通の高校生ばかりが登場する「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、学校そのものを表現した清々しい爽やかな作品だ。
映画通は、「予定調和的」だとか、「甘っちょろい」と、本作を厳しく見るかもしれない。だが、教師は、そんな風にこの映画を観ることはできない。私にとっては、眼がうるんでしかたのない映画なのだ。それは、自分が高校教員であったことが手伝っていることは間違いのないところで、情緒過多になってしまうのは、職業柄、「花嫁の父」のような気持ちにさせられるからなのだろう*1。「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、長年男子校の教師をしてきた自分にとって、「しごとば」にいる気分にさせてくれる映画なのだ。
舞台は、九州・福岡県は八女市。昼間の野球場の景色。夜の野球場の景色。主人公の朝のランニングの風景。日の入りと、美しい情景が映し出される。「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、映画らしい、美しい映画でもある。
学校は、授業が日常だ。
授業中、勉強に集中している生徒。授業中も、放課後の部活のことを考えている生徒。勉強の得意な生徒。得意でない生徒。それらは日常の高校生の姿である。
「葛藤」という難しい語句に苦手意識をもつ硬式野球部のキャプテン・松永亮太(船津大地)は、まさに青春を生きる中で悩み、葛藤とは何かを知る愛すべきキャラクターだ。ちなみに全編を流れるそこはかとないユーモアがこの作品の品性と感性としての持味となっている。私の経験でも、硬式野球部の生徒は、いろいろな力をもっている。もし成績不振だとしたら、それは映画に登場するエースのように、スポーツに夢中で、勉強をやっていないだけのことだ。
実際、漢字を知らないなんて大した問題ではない*2。やる気になれば、解決する程度の問題だ*3。私の経験でも、「緊張ばかりでなく、弛緩(しかん)*4も大事だ」というようなことを担任としてHRで言ったら、「先生、“ちかん(痴漢)”も大事なんですか」とトンチンカンな生徒の発話があり、教室中爆笑の渦になったことがある*5。
本作品のひとつの大きなテーマは、演劇部顧問・三上朋子(宮崎美子)、野球部監督・八幡浩一郎(宇梶剛士)、演劇部O B・田川柾智(林遣都)ら、高校生の成長を見守る大人の存在だ。
青春時代とは、真っ暗い中を手探りでぼつぼつとあてもなく歩いていくようなものだ*6。自分の経験からしても、青春時代なんて美化できるはずもない。
そんな鬱勃たる高校時代だが、ただ、高校時代とは、大人になろうとする一歩手前の高校生一人ひとりの、いろいろな可能性(潜在能力)が顕在化する時期であることも間違いない。
実際、高校生はいろいろな可能性をもっている。眠っているいろいろな可能性が花開くのを待っている。
そうした可能性が開花するには、大人や仲間の他者の言葉かけが大切だ。
エース望月潤(渡辺佑太朗)に、変わらなければお前の居場所はなかぞと言った八幡野球部監督が、劇中劇の鑑賞後に、知ってたのか、わかっていたのかと、劇が成功する見通しを三上先生に聞く場面がある。
国語教師・三上先生は、教師の基本形である。
三上先生が廊下でキャプテン松永に読書を奨励する場面があるが、読書でもなんでも興味のなかった生徒に、少しでも興味をもたせようとする働きかけ・言葉かけが学校では重要だ。
こうした生徒の心のゆらぎ・変化・成長が、映画の中で、丁寧に描かれていく。
代表的な一例は、心の不安からマスクを外せないマスク依存症の演劇部員・平井理史(鹿毛喜季)である。学校教育においては、目立たない生徒ほど、教師は観察・洞察しなければならないのだが、本作品において、効果音を録音することに懸命に取り組む演劇部男子部員にスポットライトをあてていることは、まさに教育的視点というほかない。自己中心的でチームに信頼を置くこととのできない、そして最後に逃避傾向のあるエースピッチャー望月が自ら落ち込んだ際に、そんなことで面白いのかと平井に問いかけさせることで、望月と平井を対比させている手法はわかりやすい。
そんな平井の演劇部入部も三上先生の言葉かけによるものであることが、屋台でラーメンを仲間と食べる楽しそうな部員たちの談話を通じて語られる。そして、乱暴ともいえるマスクをはずすエース望月の直接的な行動。
劇中劇の演劇舞台本番で、リングアナウンスの場面での平井の活躍に平井の変化(成長)を見ることは難しくない。映画では、最初にリングアナウンスの声が鳴り響き、そのあと、裏方の平井の姿が映し出されて、声の主が平井であることがとわかる場面に切りかわる。演出として効果的な順番になっていた。
望月が失意のどん底で宿舎からいなくなったとき、バッテリーを組んでいる松永キャプテンは朝まで寮の前で帰ってくるのを待っていながら、「待っていたのか」と問いかける望月に少し突き放す言い方で「自主練習だ」とでたらめを言う。本作品の中で一番魅力的な配役は松永キャプテンだろう。
そして、3人の中では一番地味な役柄で、自らのエラーで完全試合を逃してしまうファースト川口和馬(川籠石駿平)。台本中の自信に満ちたセリフを、自信がもてず、自信なさそうに言う川口。それが、本番舞台では、敵のボクサー役として大声を出す姿が画面に映し出される変化を見せる。
ドラマとは何だろうか。
成長と言えるかどうかもわからない、こうした、生徒それぞれのちょっとした変化。けれども、こうしたものこそがドラマであり、成長への積み重ねにつながっているのではないか。
人の心の中にはさまざまな葛藤がある。まさに、逃走か闘争か、である。
教師として強調したいことは、そうした生徒の心に去来するものをこそ観察し洞察しなければならないということだ。
映画「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、話の展開としては少し予定調和的かもしれない。少しマンガ的かもしれない。しかしながら、荒削りだが、若手俳優の抜擢。そして、まだ無名だからこそ、観る側の印象として、キャラクターづくりに成功しているといえるのだろう。
いじめや、非行など、大きな事件が起こるわけではないけれど、「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、可能性・変化・成長という教育のコアな部分をテーマにした直球勝負の映画というほかない。作品づくりにおける丁寧な仕事ぶり自体、制作スタッフのチームワークによるものといえるのだろう。
わがままなエースはほっとけと、エースの姿勢を心良く思っていないショート由布卓也(山田慎覇)は、劇中劇の舞台観劇中、ボクサー同士が打ち合いとなり、どっちが勝ったのかという他の野球部員に、黙って見てろと切り捨てる。その由布の眼は潤んでいた。油布は、3人の演劇練習を積極的に応援していたわけではないけれど無視していたわけでもない。冷ややかに3人を見ながらもセリフを覚えてしまうほど静かに観察・洞察していたのだ。
この場面においても、学校そのものが表現されていたといってよいだろう。
私の通った高校では、文化祭時に映画祭があり、仲間と一緒に洋画と日本映画の名作を観た思い出がある。「野球部員、演劇の舞台に立つ!」は、学校現場でこそ、高校生に、多くの仲間と一緒に見てもらいたい映画だ。
http://yakyubuin-vs-engekibuin.com/
原作・竹島由美子
監督・中山節夫
音楽・小六禮次郎
主題歌・グッドカミング
以下、とりあえずの公開予定。
• 東 京 ユーロスペース 2018年2月24日(土)〜
• 福 岡 ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13 2018年2月24日(土)〜
• 久留米 T・ジョイ久留米 2018年2月24日(土)〜
• 北九州 小倉コロナシネマワールド 2018年2月24日(土)〜
*1:多くの高校生がそうした私をつくったといえるのだろう。
*2:矛盾するようだが、大したことではないが、そうした大したことのないことにも意味と意義があることを教えることも大切な教師の役割である。漢字と同様、これは英単語も同じである。英単語を知らないなんて、さらに大した問題ではない。が、これまた矛盾するようだが、外国語学習にも意味と意義があることを教え諭すこともまた教師の大切な役割である。
*3:実は若い時分に私もやったが、教師のやりがちなこととして、漢字を知らないことで生徒をバカにする教師の姿勢はいけない。
*4:慣用読みでは、「弛緩」を「ちかん」と読むことがあるようだ。
*5:これは聞き取りの問題だから、私の滑舌も悪かったのかもしれない。
*6:映画の中でも、甲子園をめざしている高校球児として、甲子園に行ったあとどうなるのか、そんなことは、甲子園に行ってみないとわからないと、寮生活中のバッテリーのやりとりがある。