「コロナ禍に思う小沢昭一と井上ひさし 渡辺美佐子寄稿」

以下、朝日新聞デジタル版(2020/12/10 10:00)から。

 コロナ禍で舞台人の多くが厳しい時間を送っている。今だから思い出されること、先輩たちの言葉、そして将来への思い。新劇女優、渡辺美佐子さんが寄稿した。

 杉村春子さんが亡くなられて空席になっていた「日本新劇俳優協会」の会長に、北村和夫さんが就任されたのは一九九七年でした。その時の総会で、当時すでに死語になりかかっていた『新劇』という二文字を外したほうがいいのではという意見が出ました。その時立ち上がったのは会員の一人だった小沢昭一さんです。

 “ぼくは千田是也先生のおっかけなんだ。先生は日本初の新劇の劇団、築地小劇場に参加して、以後日本の演劇のリーダーとして走りつづけ、俳優座を、俳優座養成所を、そして俳優座劇場を創(つく)られた。先生の舞台にはいつも、社会の不条理の中でもがき苦しみ、倒れていく人、闘う人がいた。先生の敬愛するブレヒトを世間に知ってもらうお手伝いをしようと僕たちは劇団新人会を作った。その志である『新劇』の文字を絶対なくしたくないんだ”。こぶしを握り、頰を赤くして語るのは、ラジオで聞く話の面白いおじさんとは別の小沢昭一さんでした。その迫力に『新劇』は生き残り、二十数年たった今も変わらず、現在九百五十七人の会員がいます。

 (中略)

井上ひさしさんと初めてお会いしたのは「小林一茶」です。「藪原検校」「雨」など、痛快に新劇の殻を破ってきた井上さんが、新劇女優の一人である私に書いてくださったのが、一人芝居「化粧」、それも大衆演劇の女座長の役です。存在しない鏡の前で白塗りの男役になり、今までしゃべったこともない節回しのセリフの山。今まではあまり必要なかった「芸」を身につけなければなりません。
私は燃えました。こんなに苦しく、楽しかった稽古はありません。母の愛、というより母親の業を演じて日本中を廻り、外国も巡演して沢山の人に、もう一度「母」のことを想ってもらった二十八年間は、私の宝物です。満員の客席に飛び込んでゴキブリを探して這い回るなんて、コロナの今は無理ですよね。観客の熱気と舞台の私の汗が一緒になって小さな劇場に蒸気のように立ちこめるなんて今は夢ですよね。

(後略)