「戦争を起こされる側の論理」本多勝一(1972)を購入した

 

「戦争を起こされる側の論理」本多勝一(1972)

 「戦争を起こされる側の論理」本多勝一(1972)を購入した。『殺される側の論理』『殺す側の論理』『事実とは何か』につづく雑文集。

 初版本は1972年だが、購入したものは、第11刷の1973年度版。

 目次は以下のとおり。「Ⅰ 戦争を起こされる側の論理」「Ⅱ 円を切り上げさせられる側の論理」「Ⅲ 中国の旅から」「Ⅳ アルバニア瞥見」「Ⅴ 侵略される側の眼」「Ⅵ 貧困なる精神ー悪口雑言罵詈讒謗集」「Ⅶ メモから原稿まで」。

 以下、「Ⅱ 円を切り上げさせられる側の論理」の「一 何のために書くのか」から。

まさにこれは(「ドル・ショック」「円切り上げ」をさす:引用者注)「経済」の問題です。私たちすべての運命に、深くかかわっている。ところがどうでしょうか。いわゆる「論壇」の雑誌だの総合雑誌経済雑誌だのに登場する学者たちは、あいかわらず、なるべく学術用語をつかって、なるべく文章をむずかしくして、なるべく外国のエライ人の名や文章を引用して、なるべく抽象的に、なるべく外来語を多くして、要するになるべく私たちシロウトにはわからないようにして、なるべく専門家だけを相手にして、この「経済」を論じています。いっぽうでは、新聞やテレビが連日この問題を報道・解説していながら、あたかもこれが大震災のような避けられぬ自然現象であるかのように、もっぱら避難の方法だの、発生後の見通しだのばかり取扱っています。

 私が賃金契約をいま結んでいる会社のそばには、ある右翼のリーダーがよく来て演説しています。その論理は問題外としても、私が感心するのは、彼がたいへんわかりやすい言葉で、具体的に、はっきりと語る点です。ヒットラーの大演説も、論理は無茶苦茶であれ、とにかく大衆にわかりやすいことば、大衆自身のことばを使っている。右翼にこうした人たちが多いのは、考えさせられることです。いくら進歩的知識人や「専門家」や「権威者」が、抽象的でまがりくねった文章を使って悩んでみても、社会が混乱しはじめると、こうした大衆自身のことばで煽動する右翼の圧倒的な影響力の前には歯がたたないでしょう。(p.60-p.61)

 「「貧困なる精神」のところで「自著『アメリカ合州国』について」では…。

 黒人やインディアンたちの置かれている状況。それは「自由と民主主義」などとは正反対のしろものであった。すなわちアメリカの「自由と民主主義」は完全にニセモノであり、占領下の日本の私たちが教えられてきたアメリカ観は、まったくの虚像であることを知った。アメリカの支配原理は「差別と暴力」なのであった。

 そのような実情を描いたルポルタージュアメリカ合州国』がベストセラーの仲間入りをしたときいて、私はたいへん嬉しく思った。これは旧著の『カナダ・エスキモー』や『ニューギニア高地人』(現在の書名は『極限の民族』として一括)などがベストセラーになったこととは、かなり意味が違う。エスキモーやニューギニアのことも、多数の人々に知っていただけるほうが、著者として、確かに嬉しいことには違いない。けれども私たち日本人の明日の運命に深くかかわっているアメリカという国についてこそ、より多くの人々に知っていただきたいと思うのは当然であろう。

 かつてベトナム戦争のルポを朝日新聞で連載(単行本でも『戦場の村』として刊行)したとき、連載ルポとしては朝日の史上最大の反響が読者から起こり、この戦争の本質を多くの日本人に伝え得たことを本当に嬉しく思ったが、今度の場合もこれと共通する意味でジャーナリストとして無上の喜びだと考える。(p.251)

 とくに刺激的だったのは、「貧困なる精神」のなかの「外国語は道具にすぎない」という一文。

 よく思うのですが、たとえば英語など、日本の学生は中学から大学まで、実に一〇年間もやっていながら、どうも実用にならない場合が多い。こんなムダをするよりも、高校生くらいのとき、アメリカかイギリスへ一年間まったく一人きりで放り出し、決して日本人のいない小さな町に下宿させて、英語だけの勉強に全力を傾注できるようにしたら、もうそれで英語の「習得」のために時間をつぶす必要がなくなり、あとはこれを道具にして目的のために「使う」だけの段階に達するのではないでしょうか。一年といわず、半年でも結構です。

 (略)ことばというものは、だいたい一カ月で基本的日常生活には困らなくなり、二カ月でかなりの対話が可能になり、半年で複雑な対話もほぼ不自由しなくなる。-ただし、これはそのことばの話されている世界にはいって、習得に全力をあげる場合に限ります。(略)

 ことばは、一週間何時間程度でダラダラと長くやるよりも、短時間で全力を集中するほうが、はるかに効果的です。不完全な発音をする日本の多くの先生について、退屈な文法をつついているうちに外国語そのものが嫌いになってしまうよりも、一年くらい休学して外国へとびだすことをおすすめします。外国語などは、比較言語学だとか音声学だとかいった研究を目的とする場合は別として、一般的実用のためならば、もともと手段であり、道具にすぎないのですから、よくいう「語学」の得意・不得意以前の問題ではないかと思います。日本語を話せる能力がありさえすれば、もうそれで外国語を習得するための条件と資格は十分のはずです。「語学」ではなく、ただの「語」、つまりコトバにすぎません。

(p.252-p.253)

(『英語教育』一九六六年十一月号)

 「北大教授知里真志保博士の死」も所収。

 「Ⅶ メモから原稿まで」も面白かった。