「戦場の村」本多勝一(1969)を購入した

「戦場の村」本多勝一(1969)

 「戦場の村」本多勝一(1969)を購入した。

  私のものは、1973年度版で第14刷の<新装版>「<ベトナムー戦争と民衆>。

 「第一部 サイゴンの市民」では…。ひとつには用語の問題。

ここで私は「ベトコン」という言葉を避けて「南ベトナム解放民族戦線」を使ったが、それは次のような根拠によるものである。ベトコン(Viet Cong*1 )は「越共」すなわちベトナム共産党ベトナム・コンサン)をさし、単なる略称というよりも、アメリカおよびアメリカ側に立つ人々が軽蔑して呼ぶ言葉で、戦前の日本の「アカ」に当る。ベトナムの米軍は、もっとさげすんだ言葉として「VC」(Viet Congの略)をよく使う。だがベトナム共産党という名の党は存在せず、共産党に当るものは人民革命党と呼び、民主党、急進社会党、その他団体、個人を含めた幅広い統一戦線の一部を構成するにすぎない。この統一戦線が、南ベトナム解放民族戦線(略して解放戦線)である。ベトナム語を正確に訳せば「ベトナム南部解放民族戦線(Mat Tran Dan Toc Giai Phong Mien Nam Viet Nam)であろうが、日本ではすでに「南ベトナム解放姻族戦線」がなじまれているため、これに従った。他方、解放戦線側は、政府軍のことを(アメリカの)傀儡軍と呼んでいる。この意味でも、第三者としてはそれぞれの自称を使うのが妥当であって、もし私たちが「ベトコン」というならば、政府軍をも「カイライ軍」と呼ばないかぎり、私たちはアメリカ側に立つことになる。

(p.21-p.22)

 「第二部 山地の人々」では、著者は、南ベトナムの山岳民族について触れている。おそらくそれは、「戦争の主役に立つことは決してないが、影のような存在として常に顔を出し」ている「山岳民族」という存在の分析が避けられないからということなのだろう。

かつてはベトナム人に「モイ」(野蛮人)と総称され、それが世界の一般的呼称にまでなってしまった点は、エスキモー(「生肉を食う連中」の意)など多くの例と同様だが、現在では高地に住むことから「トゥーン」(「上」の意)とよばれ、これに対して主に平地に住むベトナム族は「キン」(kinh=漢字の「京」に相当する)とよばれている。(p.73)

 「太古のインドシナは、かれらが(山岳民族が:引用者注)先住民族として君臨していたが、次々とやってくる異民族によって次第に山の中へ追い上げられてしまった。追い上げる側として最も強力だったのが、今の「キン」すなわちベトナム族である」と書いている。著者は続ける。

従って山岳民族は、ほとんど本能的にまで「キン」に憎しみを抱いてきたが、第二次大戦後の抗仏戦時代から、ベトミン(ベトナム独立同盟)はかれらとの友好と民族自決に努力し、南ベトナム民族解放戦線もこれを継承して、解放区では今の抗米戦にも重要な役割を果している。(p.74)

だが、このとき黒服の解放戦線の兵士が、こちらを一瞬見たときの顔ーというより表情は、ほとんど生涯忘れ難いものであった。射すくめるような鋭い眼光。決然たる口もと。彼の周辺には、断固たる、いわば苛烈な空気が流れていた。それまでに見た政府軍には、こういう表情のベトナム兵は決してなかった。この一人の顔を見ただけで、解放戦線がいかに強力な精神武装をしているかを知ることができる。(p.80-p.81)

 「第三部 デルタの農民」では…。「便所の利用法」などおもしろい箇所もある。また、用語の問題では、「あの人たち」という普通名詞化した代名詞を話題にして、著者は、「村人らは「戦線の人たち」(マイ・オン・マッチャン)とか、単に「あの人たち」(マイ・オン・アイ)という表現をする」と紹介している。ある部落の場合、「解放戦線は雨の降るような晩によく現われるという。たいていは宣伝隊である。携帯マイクで」次のように呼びかけるという。

「皆さん、私たちの祖国を守りぬこう。米帝国主義は、カイライ政権を通じて一時的に金を出したりするが、こんなエサに決してだまされてはいけません」などと、暗やみの中から叫んで歩く。バス道路にある民兵の陣地でも、こんなときは黙ってきいている。(p.141)

 著者は、「アメリカが増兵すればするほど、爆撃すればするほど、次のような状況に日ごとに近づきつつあるといえよう。ー「米帝国主義とカイライ政権の公然たるドレイとなるか、それとも解放戦線とともに民族独立のため戦うかだ。中間の道はない」(p.144)という。

 また著者は、「第一部 サイゴンの市民」「第二部 山地の人々」「第三部 デルタの農民」「第四部 中部の漁民」と、ていねいにベトナムのさまざまな民衆のありようを描写したうえで、「第五部 戦場の村」へと突入する。

ヘリと自動小銃と機関銃を備えた最新装備による近代的コメ泥棒と変るところはなかった。こうした米は、うまくいけば避難農民は「援助」として配給され、農民たちは自分の米を「ありがたく」受け取らされる。まずくいけば政府軍や小役人に横流しされて、かれらのポケットマネーになる。これが農民の米をめぐるベトナムの常識だが、それでも焼かれるよりはまだよい。(p.178)

 解放戦線の宣伝板や横幕で掲げてある内容では以下のようなものがあるという。

ベトナムの英雄は伝統の力を発揮して、アメリカの侵略に決戦をいどみ、必ず勝つ」

「自由と独立にまさる尊いものはない。死んでも外国のドレイとなるまい」

「若者よ、解放軍に参じて銃口アメリカ帝国主義者に向けよう」(p.178)

 「戦車と農民」というところでは…。

かれらもまた完全に無視したふりをしていたが、牛の進む鼻先の、ほんの五、六メートル前を戦車が通ったので、二人は耕作の手を仕方なく休めた。農夫は、ついでにタバコの火をつけた。ひと息すってから、こちらに顔を向けた。そのときの顔。かつて、これほど怒りに燃えた目を、私は見たことがないように思われた。人間の笑う表情には、さまざまな種類と、さまざまな意味がある。だが怒りの表情は、どんなに人種や民族が違っても、ひとつの種類と、ひとつの意味しかない。その表情は、どんな異民族にも直接に伝わる。アゼを破壊し、いまスキ返した土地を踏みかためてゆく外国人の戦車隊を無言でにらみすえた農夫の顔の前に、アメリカのいかなる「民心平定計画」も無意味であった。(p.182-p.183)

ラジオを目前で盗まれた農家の子供たち三人が、田んぼのアゼに並んで見送った。ふしぎなことに、ラジオを盗んだ米兵らが、この子たちに手を振った。無邪気かバカでなければ、相手を人間と思っていない態度である。子供たちは、むろん完全に無表情であった。かれらがもし解放戦線の教育によって「アメリカの侵略」を説かれていたならば、いま目前でその実例による実地教育を受けたことになる。(p.184)

そして、事実の示した結論は、「無差別攻撃」も「無差別テロ」も、米軍および政府軍によるものが圧倒的に多いこと、解放軍による「無差別」攻撃は、ないとはいえないにしても、決してわざとやったものではない、過ちによるものであるのに反し、米軍や政府軍のそれは、明白にわざとやったものが多いこと ー などであった。(p.224)

 著者は、米軍の宣伝ビラ・プリント・パンフレットなどは日本で印刷されている、また「米軍のジープにも日本製がはいっている」」と書き、次のように続ける。

 このように、目にふれるだけでも、ベトナムの戦場には日本色が濃い。こうした日本の果している役割りを、韓国のセネガル兵に当るような言葉で説明しようとすれば、私はこういう表現はなるべく避けたいと思っていながらも、どうしてもそれ以外にぴったりした言葉が見つからないので、やはり書かざるを得ない。- 『死の商人』。(p.261)

 「耳の記念品」の箇所のルポは、ぞっとするほかない。

 そして、「第六部 解放戦線」。

 政府軍の中に、同志がたくさんいる。そうした兵隊は、例えば手榴弾が一〇個支給されると、そのうち二個を必ず解放軍にまわす。カービン銃や機関銃を一挙に大量入手するときは、政府軍民兵と連絡をとって八百長戦争をする。たとえば、ある陣地でその約束ができると、予告された時間に政府軍民兵らは陣地から外へ避難する。そこへ解放戦線が行って、あらゆる武器弾薬を奪ってから陣地を破壊して引き揚げる。陣地はそのあとで「全く突然急襲された」と本部に報告する…。(p.287)

米軍の猛攻撃によって、たとえ完全解放区の面積がせばまっても、それだけ政府支配地区の面積が広がるわけでは決してない。広がるのは競合地区であり、そして、それは解放軍の憩いの地、ある意味では「銃後」でもある。(p.288)

 アメリカと政府軍が民衆を敵にまわすようなことばかりするので、戦争が長引くほど民衆が彼らを憎む度合いは強くなるという。なるほど。

 つぎは著者が聞いたベトナム人の即興歌。

アメリカにいかに苦しめられようと

ベトナムは独立を達成するぞ。

爆弾が降り

銃弾のとぶ中で

民衆は粗食に耐え

田畑を耕し

米帝国主義に抵抗する。

祖国が分断され

植民地にされないために

がんばり抜くぞ。

(p.337-p.338)

  解放戦線の取材を終え「脱出」のところで、最後の記述が印象的だ。

 著者は、解放区・解放戦線の人たちに別れを告げて、「タマよけ」のために、「敵側の旗」「政府側の旗」を立てたサンパンに乗って、白昼堂々と、メコン川の大河に出る。

 まもなくメコンの大河に出た。いつも変わらぬ濁流を満々とたたえている。快晴。ところどころに入道雲。ヘリコプターや砲艦の類は全く見られない。サンパンは大河の中央へ出て、快調に走りつづける。二キロほど下流を、別のサンパンが横切っている。むろん、これも政府側の旗を立ててはいるが、正体はこの舟のようなものかもしれない。

 対岸に政府軍のポストが見えた。サンパンはその方へと斜めに川を寄せていく。川蒸気の定期便がつく小港は、あのそばにある。私たちは腕時計の針を一時間すすめて、解放区時間からサイゴン時間に合わせた。(p.359)

 本書は、「JCJ賞(日本ジャーナリスト会議)受賞」「毎日出版文化賞受賞」「ボーン国際記者賞受賞」を果している。

「戦場の村」本多勝一(1969)

 以下、本書にたいする新聞労連評の一部。

 第1部から第4部までの記録は、読み流していると、ベトナム戦争とはなんのかかわりもない描写のようであり、”先進国”の記者が”後進国”の民衆を生態学的にもて遊んでいると誤解されかねないほどだ。(略)ところがこうした記録を通して、読者はひとくちに”ベトナム人民”と呼ばれているその”人民”の具体的な様相をすっかり自分のものにしてしまうのだ。(略)その上で、第5部「戦場の村」第6部「解放戦線」へと続くスリリングな戦争そのものの場面で、読者はその親しい”人民たち”の悲惨さと解放の明るさを読むのである。(後略)

 労作といえる本書の特徴をよくとらえた評と言わざるをえない。

*1:ここでは表記上の補助記号は技術的に正確に表記できていないため、引用として不正確であることをお断りしておきます。