映画「東京裁判」(1983年)を観てきた

映画「東京裁判」を初めて観た。
モノの見方・考え方として、一面では正しいが、多面的に見ると、正確な見方・考え方とは言えないということがある。こんな基本的なことはあえて強調するまでもないことなのだが、最近の日本では短絡的なモノの見方・考え方が横行している印象があるので、基本的なモノの見方・考え方としてあえて強調しておく必要がある。
映画「東京裁判」を観ながらいろいろと考えることが多かったが、映画「東京裁判」を初めて観て真っ先に思ったことがことがこれだった。
ひとつは、世界情勢をどう見るのか。アジアの中の日本。朝鮮。中国。東南アジア。ベトナムオセアニア。反ファシズム統一戦線。日独伊の三国同盟。戦後冷戦における覇者争いとパワーポリティックス天皇制。「無責任の体系」。戦後の日本国憲法。ひと言で言えば、歴史であり政治である。
個人のドラマに焦点をあてれば国家体制と個人。組織と個人。日本・英米・アジア・第三世界というそれぞれの立ち位置。言うまでもなく、個人のモノの見方・考え方は、その個人が置かれている環境の影響から逃れることはできない。それは、個々人の政治的立場に影響をもたらし、そして裁判の仕方にも反映してしまう。
印象的だったのは、オーストラリア出身のウェッブ裁判長の英米とは微妙に違う立ち位置。対日支配の戦後処理を念頭に置いているアメリカ合州国出身のキーナン検事。国際法を専門とするインド出身のラダ・ビノード・パール判事の見方・考え方だ。死刑か終身刑か無罪かを決めることが重要ではなく、どうしてああいうことが生じたのか分析することが重要であるというモノの見方・考え方には深く共感する。こうした見方・考え方は、おそらく、英米や当事者である日本の主流派では不可能であったろう。にもかかわらず、当時はもとより今日なおそうした視点でのモノの見方・考え方が求められていると言えるのではないか。
印象的だったのは、東京裁判は完璧なものではなかったということだ。だから一面的な批判はいろいろと可能だ。むしろ東京裁判から尽くせぬ教訓を導き出さなくてはならない。ひとつ課題を言うならば、天皇の戦争責任とは何か。そもそも死刑制度は妥当か、死刑という判決の妥当性が挙げられよう。歴史的資料を映像として残した小林正樹監督の仕事の意義は大きいと言わなくてはならない。
映画「東京裁判」は大作であり必見である。
監督、小林正樹。ナレーター、佐藤慶。音楽、武満徹
1983年6月公開。