記者にたいしても教師にたいしても最大限の「自由」が保障されなければならない

 祖父・父と、三代にわたって、朝日新聞の読者だった。

 小学生の頃、本多勝一記者の「カナダ・エスキモー」を読んだ記憶がある。高校生の頃は、本多記者のベトナム関係の記事や単行本の「アメリカ合州国」を読み、本多記者の「貧困なる精神」シリーズも買い求め始めた。大学生の頃は、本多さんの「日本語の作文技術」「ルポルタージュの方法」、ジャーナリズム論、冒険論も愛読していた。

 本多さんの書くものは、視点が面白く、事実の積み重ねを材料として、モノの見方・考え方を考えさせられるものが多かった。

 本多さんのしごとばである朝日新聞社についても、本多さんは書いていたから、そうした本多さんの書かれたものから影響を受けて、その視点で私も朝日新聞を眺めていた。

 たとえば、ニューヨーク・タイムズのもつ「自由」や「進歩性」の評価、相対化。たとえば、朝日新聞のような大新聞で書く「限界」と「意義」*1。たとえば、記者クラブのくだらなさ。記者とデスクとの関係。大手メディアに属する記者個人と大手メディア組織との契約関係。使う側と使われる側の関係性のあり方。フリーはそれほどフリーではない論。ルポルタージュの意味・意義など。

 愛読していた本多勝一記者が退職時を迎え朝日を去ることになって、発行部数の多い日刊紙に記者が書き続けられることの意義を考えると、ジャーナリストとして、仕事として、そうした場を失うことの喪失を記者の立場になって想像すればするほど、それは耐え難いほどの喪失感ではないかと、一読者として想像した。大新聞に書ける場を持っていること、冒険心を発露させ、タブーをおそれず挑戦する姿勢と勇気。そうした気骨のある記者を支える読者層。当時の本多さんは、いわば朝日のスター記者だったから、本多ファンも相当に多かったはずだ。

 リベラルな朝日新聞が好きだったが、故安倍晋三首相から朝日新聞が敵視され、朝日も、徐々に、おかしくなっていった印象があった。朝日が”普通”の新聞になり、権力側から見てもそれほど敵視すべき内容もないのに、とも感じていた。象徴的には、本多記者のような存在をこころよく思っていない姿勢のデスクが、政治力学で、徐々に朝日新聞内において、ちからをもちはじめていったのかと勝手に邪推していた。

 朝日新聞組織内で奮闘しているジャーナリストもいるだろう。そうしたジャーナリストを応援する意味で購読を、あえて言えば惰性的に続けていたが、数年前に、三代続けていた購読を止めた。

 今回、鮫島浩氏の「朝日新聞政治部」を読んで、著者の視点で朝日新聞政治部を眺められる貴重な体験をした。

 読んだ感想の詳細は避けるが、40年ちかく、私は、私大付属校をしごとばとして教師をしていた。担当教科は英語だった。その経験から感じたことを少し述べてみたい。

 さて新聞記者も高校教師も、組織がしごとばであるという共通項をもっている。

 ここから「サラリーマン記者」「サラリーマン教師」という実態も生まれるわけだが、記者も教師も、記事を書いたり、教壇で授業をしたりと、もちろん組織としての総体の評価はあるけれど、組織構成員として、部分的には、個人で一翼を担うものであり、個人が重要な構成部分であることは言うまでもないが、かけだし新聞記者も、かけだし高校教師も、しごとばが育てるものだ。もっと広くいえば*2、記者も教師も現場が育てるのだが、そうした現場のひとつとして、先輩記者・先輩教師も教育的環境として重要であることは言うまでもない。劣悪な環境であっても逆に反面教師として深く学べるということももちろんあるが、先輩諸氏がどのような質の助言をするのか、これは新聞にしても学校にしても、教育環境としてかなり重要だ。

 本多勝一記者は、大学時代の山岳経験や冒険で、朝日新聞入社前に、骨格部分ができあがっていた学生と想像するが、強烈な個性ということでいえば、むかしは、たとえば、俳優さんでも、かなり個性的で強烈な人が少なくなかった。戦争体験など、それまでの考え方をガラッと変えさせられる体験をした世代だからだろう。一般に、動乱期では、落ち着いた、その意味で画一的な”教育”がなされるはずもない。本多勝一記者や故筑紫哲也記者の採用時には、たしか入社試験がおこなわれなかったため、「一般常識」のない世代と揶揄されたことがあったと、本多さんの書いたもので、どこかで読んだ気がする。これは自分の経験で恐縮だが、私が私大付属校で高校教師として採用になったとき、1時限目の採用試験は大問一問で「なぜ高校の教師になりたいのか、日本語で書きなさい」というもので、2時限目の試験は同じく大問一問で「なぜ高校の英語教師を志望したのか。英語で書きなさい」というものだった。解答用紙として、罫線も引かれていない更紙を渡された記憶があって、渡された更紙は、縦に書くのか、横に書くのか、試験監督者に質問をした気がする。筆記試験後は、面接が2度にわたっておこなわれ、奇蹟的に採用となって、4月に職場に入ると、大きな職員室で、国語のひとりの先輩教師が、「君は採用試験を経て採用されたのだから、いばっていい」と言われ、はて、それはどういう意味かと尋ねてみると、たまたま職員室にいた高校数学教師たちは、採用試験なしで採用となった教師が少なくなかったと聞いて驚いた。私が採用される以前は、採用試験という点では、おおらかな時代だったのだろう*3

 言いたいことは、新聞記者も高校教師も、大学・大学院卒後の到達点など、たかが知れているということだ*4。いまだ新聞記者にも、高校教師にもなっていない、伸びしろだけの、まさにかけだし時代ということだ。その後の現場で、いっぱしの新聞記者になり、高校教師になるのであって*5、したがって、しごとばの職場環境が決定的に重要である。

 新聞記者も高校教師も、最終的には、個人が重要である。したがって、その個人には最大限の「自由」が与えられなければならない。ジャーナリズムの「自由」。教育の「自由」である。けれども、この「自由」は、好き勝手に、デタラメにやってよいというものではない。それぞれ自由を担保するための構造があるのだ。かけだし新聞記者も高校教師も、その点を深く学ばなくてはならない。事実を確認・確定することとか、ウラをとるとか、人権擁護が基本であるとか、仕事上の優先順位であるとか。デスクや校長にも理をつくすとか。さらには、読者や生徒・保護者の圧倒的支持を得るとか。こうした意味で、個人の自由を保障するためにも、新聞記者集団や教師集団で、切磋琢磨しながら、協同的・共同的なしごとを展開していくちからも求められることになる。

 新聞記者も高校教師も、世代的交流と連携、相互批判、そして小集団的・組織的な取り組みが必要不可欠になる。そうしてこそ、新聞記者の「自由」も「主体性」も、高校教師の「自由」も「主体性」も担保されるのだろう。

 いまアベ・スガ・キシダ政権の悪政の悪影響から、権力によって主体性を抜き取られ、ことなかれ主義、サラリーマン根性・奴隷根性の新聞記者や教師が増えている気がしてならない。嫌気がさした者からは退職者があとを絶たない*6。これは、たとえば朝日新聞東京オリンピックのスポンサーになったり、ビジネスとして、イベントや不動産に、より手を出していることと無関係ではないだろう。本書でも福島原発事故慰安婦記事・池上コラム問題を使っての朝日バッシングに触れている第六章・第七章は読み応えがあり、安倍政権による朝日攻撃と朝日がいわば軍門に下った社内対応の一部が理解できた。今や日本の報道自由度の世界ランキングは2024年度で70位だという。

 教育では、現場の教師を疲弊させている劣悪な職場環境と無関係ではないだろう。世界の公的教育費対GDP比率(2022年)で日本はなんと3.46%で世界121位である。

 それぞれ戦後最大の危機を迎えているといわざるをえない。

 本来なら、記者にたいしても教師にたいしても最大限の「自由」が保障されなければならない。

 記者の学習権と表現の自由、教師の学習権と表現の自由の保障のために、環境を整備するのが、本来の社会や政治の役割である。それが、いまはアベコベの社会や政治になっていることが最大の危機だ。

 衝撃的内部告発とまでは言えないまでも、「朝日新聞政治部」は、朝日新聞政治部出身者による良心的ルポの一冊と言えるだろう。

 朝日新聞と同様、「報道ステーション」に象徴されるテレビ朝日の劣化も著しい*7ルポルタージュとして、忖度メディアの内幕暴露も、もっと期待したい。

 私は紙の新聞に未来がないとは考えたくもないし考えてもいない。デジタルのミニコミやフリー、あるいはSMSやネットだけではなく、やはり王道は、大手マスメディアが、政権に忖度することなく、ジャーナリズム精神を発揮し、質の高い、健全な報道をする本来の姿に立ち戻らなくてはいけないと強く期待している。

*1:当時、「ブル新」という表現があった。

*2:広くいえば、教育者こそ教育されなければならないという弁証法的視点が重要であろう。

*3:いい加減で不正な採用であったと言いたいのではない。教科教育に対する力量・人格評価・資質は人事委員会によって確実にやられていたと思う。高校教師は批判精神旺盛な多人数の高校生によって日々・毎時評価されるのであり、高校教師は職を得てから勝負が始まるのであって、そんな高校教師を続けることはそんなに甘い話ではない。

*4:記者や教師として後天的に学ぶべき技術を中心に言っている。学生時代までにやるべきことは、人格形成であり、人格の陶冶である。人間的大きさを育てるのが教育本来の目的であろう。

*5:いい教師が育つには時間がかかる - amamuの日記

*6:鮫島浩記者も朝日新聞を退職したひとりで、現在、SAMEJIMA TIMES を立ち上げ、政治分析動画を連日あげている。東京都知事選情勢など、参考になるものが少なくなかったが、都知事選最終盤の7月2日現在、石丸伸二候補者に対する背景に切り込まない点に違和感を感じた。鮫島氏、大丈夫か。元朝日記者語る「メディアが外部批判恐れる」実情 「朝日新聞政治部」著者、鮫島浩氏が斬る! | メディア業界 | 東洋経済オンライン

*7:政権に忖度するテレビ朝日に「株主提案」で問題提起 勝算はあるのか…田中優子さんに聞いた(日刊ゲンダイDIGITAL) - Yahoo!ニュース