授業が始まってから3週間が経つけれど

amamu1981-10-17

 授業が始まってから3週間が経つ。
 ロッドの文法はなんとかついていける。ためにもなる。興味深い点は、言葉の発想が違うとどの国の人も混乱し(confused)、なかなか理解できない点だ。母国語*1の論理構造が理解を妨げるのだろう。一人ひとり生活を背景に負っている子どものような気分になる。いま、句読点、仮定法が終わったところだ。
 ジムのReadingの授業は、退屈(boring)で、実際退屈している(get bored)とクラスメートが言っている。単語を抜き出し、発声させたり、”Where is the ice-cream man?””Mother, there is not any ice-cream man.”という短い文章を暗誦させたりするので、すこぶる評判が悪い。たしかにクラスメートの精神年齢に合わない。スターンなどは、ジムのモノ真似をしてバカにしているほどだ。
 Los Angels Timesや雑誌Timeのlistening comprehensionは、ほとんどダメ。他のクラスメートは力があるが、私はいつも”Don’t worry.”と書かれてしまっている。私としては開き直るしかない。
 word list, vocabularyは、クラスメートがわからないと思われる単語を教師がピックアップするのだが、ドイツ人・フランス人のクラスメートは「その単語は知っている」と答えることが少なくない。教師の方も他の言語にも気をつかって「スペイン語にも、この単語はありますか」などと言うことも多い。最後に教師が私の方を向いて、私が絶望的に”Absolutely not.”(「日本語では見たこともありません」)と答えると、板書し始めるのだ。
 英語と日本語が重なり合うことは稀である。語彙は全くピンとこない。漢字だったらどんなに楽かと最近よく思う。単語がわかる(comprehend)というのは、暗記ではない。理解(comprehension)である。語源(歴史)、反対語、語法も含めて、文字通りの意味と、発展し派生した使い方など、構造的・体系的に理解して初めて深く使えるようになる。この点で、英語と言語的に重ならない日本語を使う日本人にとっては、全く不利だし、学習方法も最も「遅れている」かもしれない。というのは、英語を変てこな受験技術に祭り上げてしまったからである。
 ともかくlistening comprehensionやvocabularyでは、悔しい思いをすることが多い。
 ジュディのCommunication Skillは、週に一度、lectureがあり、カリフォルニア州の歴史、原発問題などの講義があり、それをノートに取って、クラスに戻り、まとめをおこなって発表をするのだが、これが苦痛。まとめる力がないというより、私にspeakingの力がなく、しどろもどろで、まるで赤子に帰った感じですらある。
 次回は、field tripとして、難民(refugee)問題をやる予定。サンフランシスコにある難民教育機関を訪ねるために、パンフレットの学習会をやっている。私の担当はラオスのホム族についてパンフレットを読み、10分間の講義をしなくてはならない。いわばゼミナール活動である。
 昨日は、日本のテレビ番組について発表をしたが、NHKの受信料の問題を言おうとしたのだが、しどろもどろで、クラスを混乱させてしまった。先生は、翻訳(translate)せず、英語で考えろ(think in English)と言うが、言われるほど簡単ではない。
 ラオス問題では、きちんと発表ができるように、いまレジュメを作成中である。
 英語を話すにはトータルな力がないとダメだ。内容・経験・人格がそなわっていないと、異文化の壁を越えてコミュニケートすることはできない。私の場合は、feeling英語ならば、完全とは言わないまでも、なんとかできる。発音や英語ができるという雰囲気だ。しかし、論理・知識・体系となると、しどろもどろで、情けなくなる。
 この学校では、多くの日本人がレベルとしてのセクションを下げてクラスを落としているようだが、ともかく俺はSection 6についていくことにしよう。

*1:母語」(ぼご)という言葉が広く社会的に問題提起されたのは、1981年11月に発行された田中克彦氏の「ことばと国家 (岩波新書)」から。ここでも母国語ではなく正しくは母語(ぼご)だが、当時の私にはそうした認識はなかった。「母国語」は原文のまま。