やらせっぱなしでなく、すぐにフィードバックがあるのはいいことだ

 応用言語学の教授からは、早速昨日の授業で、各学生に評価の手紙が配られた。ワープロによる英文タイプで書かれ、署名も入っていて、ABCで評価がつけられている。彼の言葉どおり、日曜日に学生の課題を全部読んだのだろう。彼はイギリス人だが、ニュージーランドでも仕事をやるときはやるんだなと思った。
 私の書いたものは、これは自己評価だが、そもそも紹介された大量の課題文献は読んでいないし、書いたことは設定されたテーマからもずれているし、アカデミックなスタイルとしても全く体裁が整っていないので、案の定、C+というひどい評価だった。
 これは恥を知りながら書くのだけれど、実際私の得たこの評価はひどいものだ。この論文課題だけだったら、もう少し頑張って読書課題を読んで書けたかもしれないけれど、今の状況では無理だ。こんなひどい評価をもらって、ずっと昔の自意識過剰気味の自分だったら立ち直れなかったかもしれないけれど、今の自分なら大丈夫。少しは自分のことを客観的にみれるようになったからだ。
 一つの模範例として、完璧ではないけれど、優秀なものとして授業中に配られた匿名のペーパーがある。一見してなるほどと思える。まず「前書き」があり、課題指定された二つの概念がさまざまな文献の引用と考察をもとにして「概念規定」されている。そして「自分の独自な概念規定」が書かれ、結論的に「文法指導に関する自分の立場」が書かれている。また、それと同じ分量ほどの「脚注」と「参考文献」「別表」がある。自分ができるかどうか別にして、こんな風に書けばいいというのがよくわかるようになっている。ちょっぴり負け惜しみを言えば、やり方がわからないからできないのであって、やり方がわかれば、私でもできるという自信がないこともない。もっともアカデミズムの世界とは無縁な世界に生きてきた私のこと。そもそもアカデミズムとは縁がないのだが、ルール違反の課題提出が全く評価されないという好例に違いない。
 CALLの方は、電子掲示板上で、各学生個人にしか見れないファイルがあって、課題提出後、各学生の課題に対する担当教員の評価がそこに書かれることになっている。
 つまり、学生にやらせっ放しというのがなく、きちっと評価されるということである。別のコトバで言えば、フィードバックがあるということだ。この当たり前のことが日本ではなかなかできない。その原因は単純で、学生数の多さがその原因である。さらにはっきり言えば、劣悪な教育環境を許している教育政策にある。これは国民にも責任があり、そうした劣悪な教育環境を許している教育政策を、充分に監視・批判できない市民感覚のレベルの問題がある。
 この前、中国人の高校生に聞いたら、中国のその子のクラス人数は一クラス50人だと言ってたから、ニュージーランドでは考えられない数だ。ニュージーランドの高校の学生数は、統計を調べたわけではないけれど、ジュディや教員であるジュディの長女マーガレット、そして高校教員であるジェフに聞いてみたことからすれば、おそらく25人くらいだろう。
 日本でももっとクラス人数を減らすことができれば、多くの教育問題が解決すると私は考えている。