まずもって民に余裕が与えられないとね

 ニュージーランドの都会では、すでに前に紹介したように、残念ながら私はまだ行っていないけれど、文化都市・ウエリントンがイギリス旅行者にとっては一番人気であるようだ。オークランドと同様に、映画、カフェ、パブ、博物館、美術館なら、ウエリントンはとても魅力的なところらしい。
 そのウエリントンで、10月23日に「人種差別に反対する行進」(Anti Racism March)をやるとテレビで報道していた。
 スポーツフェスティバルや文化的行事の日時を、テレビでさらっと映し出すことがニュージーランドのテレビでは少なくない。インターネットと、テレビ、そして市民広報で、彼らはこうした催し物について知ることになるのだろう。
 ニュージーランドは、自然も地域共同体も、壊れていないと思う*1。多少壊れたにしてもそれを直せる治癒力を信じていると思う。ボランティア活動なんかが盛んなのはそのせいだろう。市民の力に信頼を置いていると言ってもいい。
 「日本じゃ、教科書検定っていうものがあって、教科書は行政的に管理されているんだ」という話をジュディにした際に、「へぇ、まだそんなことやっているの」といった彼女の反応を私は忘れることができない。
 日本では、民の力にトップが信頼を置いていないと思う。品質管理のトップダウンもいいけれど、もっと民の自主的な力を信じた方がいい。地域には力のある人たちがたくさんいるのに、そうした力を日本では引き出しえていないと思う。もっともお上にまかせることばかりに慣れてしまうと、なんでもお上まかせになって、民の方が力を失ってしまうこともよくある話なのだけれど。
 民の力を引き出すためには、なんといっても民に余裕が与えられないといけない。そうすれば、もともと我々に力がないわけじゃないから、もっと民のレベルの高さが引き出されると思うのだけれど。
 そのためにも、まず男性も女性も会社から解放されて地域に帰らないといけない。とにかく日本人は働き過ぎである。

*1:clean, greenのイメージを持つニュージーランドだが、移民による開拓のせいで、原生林は案外に少ない。それでもニュージーランドでは自然保護運動が機能していて、現在、自然が守られている。政治が機能しているという意味で、ここでは壊れていないと言っている。