原典主義の教科書で精読と訳読の授業に言語活動指導が入り込む余地はなかった

 私の高校時代に受けた英語教育の、その思い出の一端を昨日書いたのだが、誤解を受けるといけないので一言断っておくと、言語活動のトレーニングをしてもらわなかったという批判を私はしているわけではない。
 これまで何人かの英語教師に習ってきたけれど、高校時代のこの英語教師は、数少ない私の好きな教師のうちの一人だった。実際、彼の授業による語彙指導と文法指導は素晴らしかった。
 ここ数日たしかに言語の仕組みと言語活動を統一して学ばないとコトバはマスターできないという話をしているのだが、学校教育が何をすべきかという学校教育目的論でいえば、これはその論議をしないといけない。当時の教科書は原典主義で、言語活動を導入するような余地は全くなかった。あの原典主義のむずかしい教科書を扱うには精読と訳読しかなかった。
 当時の教育界の枠組みから、結果として、言語活動指導がなく言語指導に終始していたとはいえ、その言語指導が素晴らしければ、何の批判が有効だろうか。恩師の英語の授業は当時の私にとっては格別の意味があった。実際、彼がいなかったら、私は英語教師なんかにならなかっただろうと思う。