全ての無差別大量殺戮に反対しなければならない

 広島・長崎の無差別大量殺戮(ジェノサイド)は問題だとヒロシマナガサキを問題にするとき、日本の軍国主義が原爆投下の口実にされることがある。世界の人々を不幸に落とし入れた日本ファシズムを集結させるには、原爆投下もやむをえなかったのだ、仕方がなかったのだと。
 たしかに、広島・長崎を日本人が問題にするとき、8月15日が終戦ではなく、日本帝国主義植民地主義からの解放であった人たちが、とりわけアジアにたくさんいたことを日本人は忘れがちであるから、そのことはけっして忘れてはならないだろう。
 広島・長崎を忘れるなというとき、日本軍国主義による台湾・朝鮮・中国・マレー半島シンガポールへの侵略戦争や植民地支配を私たちは忘れてはいけないのだ。
 私たち市民の立場は、全ての無差別大量殺戮に反対する立場でなければいけない。
 もちろん、広島・長崎への原爆投下は仕方がなかったという立場ではありえない。ヒロシマナガサキへの原爆投下のような全てのジェノサイドを許すことはできないという立場である。
 これは、世界の市民に対する原爆投下は許さないという立場である「全ての世界市民に対する」原爆投下が許されないのだから、「日本人に対する」原爆投下という限定は意味をなさない。
 「ヒロシマのような殺戮はもうたくさんだ」ということを英語でいうと、No more Hiroshimas!とHiroshimaを複数形にするのは、Hiroshimaというものが、固有名詞ではなく、原爆投下を受けた街という名詞になってしまっているからだ。No more Hiroshima!といえば、「広島なんか無くなってしまえ」というニュアンスになってしまうのだろう。

 以上書いたことと、ニュアンスは違うが、栗原貞子さんが書かれた「ヒロシマというとき」という詩が興味深いので、以下引用しておく。

ヒロシマ〉というとき

〈ああ ヒロシマ〉と

やさしくこたえてくれるだろうか

ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー

ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺

ヒロシマ〉といえば 女や子供を

壕のなかにとじこめ

ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑

ヒロシマ〉といえば

血と炎のこだまが 返って来るのだ

 

ヒロシマ〉といえば

〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは

返ってこない

アジアの国々の死者たちや無告の民が

いっせいに犯されたものの怒りを

噴き出すのだ

ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしくかえってくるためには

捨てた筈の武器を ほんとうに

捨てねばならない

異国の基地を撤去せねばならない

その日までヒロシマ

残酷と不信のにがい都市だ

私たちは潜在する放射能

灼かれるパリアだ

 

ヒロシマ〉といえば

〈ああヒロシマ〉と

やさしいこたえが

かえって来るためには

わたしたちは

わたしたちの汚れた手を

きよめねばならない