斎藤貴男氏の「教育改革と新自由主義」を再読した

教育改革と新自由主義

 前に読んだ本だが、斎藤貴男氏の「教育改革と新自由主義 (寺子屋新書)」を再読した。
 この本に限らないが、教育というものは、数字にあらわしにくいものであると思う。
 たとえば、テストの点数があるけれど、ある尺度でつくられた限界のあるテストであっても、それが基礎的な学力を示すという客観性があれば、それは、そのテストの限りにおいて点数が高いに越したことはないだろう。また、A君、B君、C君の中で、誰が一番かという比較も、その限りにおいては意味があるかもしれない。
 それでも、テストは結果ではない、過程である。できなかったところができるようにするための反省材料だというのも、ごく普通に言われる正論でもある。
 ところで、堀尾輝久氏の「日本の教育」で紹介されたいたのだが、遠山啓氏によれば、学校でいろいろな教科の評価を足し算して平均値を出すのは意味があるのか、それは人間の慎重と体重と胸囲とを、その三つを足して三で割るようなものだという話をされたことがあるらしい。これは、面白い論点だ。
 数字は、何かを示していることは確かだが、あくまでも限定つきのもので、数字が一人歩きしだすと、教育的にみて危険であるということなのだろう。
 また、ロマンを込めて語ることができるとすれば、教育というものは、数字の、その先にあるものを目指したいものだ。そうでなければ、教育といっても、教育なんて、なんて夢がなさ過ぎるものなのだろうか。
 そうした意味で、学校というところは、民間の発想、会社の発想ではなく、自由・平等・人権・民主主義が主張できる場所であって欲しい。
 経済効率から、教育を食い物にすることは、教育が教育たりえなくなってしまうという意味で、教育の自殺行為である。