斎藤兆史氏の書かれたものをこれまで読んだことがなかったが、同感できる趣旨が書かれていて、氏の「日本人に一番合った英語学習法―明治の人は、なぜあれほどできたのか (祥伝社黄金文庫)」を大変面白く読んだ。
じつは、英語を世界に広めた第一の推進力はイギリスの帝国主義であり、その具体的な表れとしての植民地支配だったのである。このことはしっかりと頭に入れておく必要がある。(p.19)
第一のポイントは、ここまで英語が広まった理由について、その点を批判的(crical)におさえておく必要があるということだ。上記の斎藤氏の視点は否定できない歴史的事実だが、この点を明確に指摘する英語学者は少ない。この点に眼をふさぐとすれば、そうした思想は信用に値するものなのか。この点、斎藤氏は明快である。
英語が日本に初上陸したのは西暦一六〇〇年である。それから四〇〇年あまりが経過したいま、我々は、日本英語受容史上ほかに類を見ないほどの英語狂騒の時代を迎えている。(p.4)
一六〇〇年から話を始めたのには訳がある。じつは、日本にはじめて英語の母語話者がやってきたのが、ほかならぬ一六〇〇年であった。(p.21-22)
記録に残っているかぎり、英語話者とのコミュニケーションで悪戦苦闘した最初の日本人は、徳川家康ということになる。(p.22)
徳川家康について、これは知らなかった。
残念ながら、いまの日本の英語政策には哲学がない。そこにあるのは、ただ漠然とした憧憬や焦燥感、…(p.5)
第一のポイントとも関わって、英語を学ぶことには、確かに「憧憬」や「焦燥感」があるのだろう。つけ加えるならば、ここに「殖民地根性」や「劣等感」「奴隷根性」を加えてよいだろう。「西洋かぶれ」にならずに、英語を学ぶという視点は極めて重要である。
第二のポイントとしては、言語はズボンやスカートを履きかえるように簡単に身につくようなものでないということ。英語がすぐ身につくかのように主張する思想はインチキである。
また同じ外国語といっても、語彙や語順などの文法で、体系の違った言語を学ぶことは大変であるということ。これも長年の経験からそう思う。
斎藤氏の言葉を借りるならば、次のようになる。
そもそも並大抵の努力で英語など使いこなせるようにならないということ、…(p.6)
母語話者に習えば英語はすぐに上達するものだと誤解している日本人が多いのだが、英会話学校に通ったことのある人ならおわかりのとおり、数年間母語話者に会話を習ったくらいで英語など不自由なく使えるようにはならない。一年、二年英語圏に留学したとしても高が知れている。あとで解説するとおり、日本語と英語がまったくかけ離れた言語だからだ。(p.25)
日本人にとって英語とは、きわめて異質な言語である。…並大抵のことでは、とても習得できるものではない。(p.40)
日本語と英語のきれいなバイリンガル、二言語併用などというものは、口でいうほどやさしいものではない。(p.42)
斎藤兆史氏の著作で、私が学んだことは、英学史の片鱗である。
新渡戸稲造や岡倉天心、斎藤秀三郎という名前は聞いたことがあっても、その中味について私は知らなかった。
幕末から明治になると、日本は欧化政策を採るようになり、急速に英語の需要が増えた。そして、明治初期には、とにかく何でもかんでも英語という第一次英語ブームが訪れる。
この時代に教育を受けたのが、新渡戸稲造…、岡倉天心…、斎藤秀三郎…といった英語達人である。彼らは、現代のエリートでも及ばないほどの英語力を有していた。(p.26)
新渡戸は読書量が尋常でなかった。札幌農学校の図書館にある本は全部読んでやろうと思って、片っ端から読んだと本人も書いている。当時は、英語の本がかなりの割り合いを占めていたはずだから、彼は毎日毎日英語の本ばかり読んでいたわけである。(p.31-32)
次の岡倉天心の次のエピソードは愉快だ。
天心はシャーロック・ホームズものの原書を初見で日本語に訳し、妻子に読み聞かせたという。よほど洋書を読み慣れていなければできない業だ。
天心の英語力を示すものとしては、「おまえたちは何ニーズだ? チャイニーズか、ジャパニーズか、ジャヴァニーズか」とアメリカ人に冷やかされ、「あんたこそ何キーなんだい? ヤンキーか、ドンキーか、モンキーか」とやり返したという逸話が有名である。(p.32)
斎藤氏によれば、こうした達人の秘密は、膨大な読書量にあるということで、これは説得力のある主張である。
読書量ということで言えば、斎藤秀三郎も驚異的だ。彼は明治・大正期を代表する英語学者で、なんと一度も海外に出たことがないにもかかわらず、イギリスから劇団がやってきて下手なシェイクスピア劇など演じようものなら、「てめえたちの英語はなっちゃいねえ!」と英語で一喝したという。(p.32-33)
第三のポイントとしては、英語ができればそれでよいのか、それで万々歳かという視点。
また、5、6歳から12、13歳までの言語能力の発達期、いわゆる「臨界期」についても触れ、母語が何になるのか、英語ができても日本語ができなくなるリスクについて述べている。これも重要な指摘だ。
そして、そのために言語インフォーマントにはなれても、母語を相対化できないことから、斎藤氏は、ジョン万次郎、神田乃武、津田梅子について次のように述べている。
だがジョン万次郎、神田とも、英語圏での生活が長過ぎたために、自分が身につけた英語を教えることはできても、それを一般の日本人のために体系化することができなかった。(p.75)
だが、残念ながら、ジョン万次郎、神田乃武と同じく、梅子もまた日本人のための英語学習法を体系化することができなかった。(p.87)
南方熊楠(みなかたくまぐす)が「最初に英語を学んだのは、一八七九(明治一二)年、一二歳で和歌山中学に入学してからのこと」である。
のちの南方の博覧強記の原点が少年期の筆写癖にあることは、多くの伝記が指摘するとおりである。だが私は、彼の卓越した語学力の基礎もまたこの筆写癖によって築かれたと考える。(p.89)
文法・訳読が悪いと言っても、南方をはじめ、それを中心とした学習法で英語を学んだ昔の偉人以上の英語の使い手が、その改革後にほとんど生まれていないのだからお話にならない。(p.90-91)
南方のように一流科学雑誌『ネイチャー』に寄稿するまでの英語力を身につけるには、長年にわたる書き言葉の地道な修練が必要になるのだ。(p.93)
驚くべきことに、その文章を書き上げるのに、彼は誰の手も借りていない。下宿屋の老婆からページの欠けた辞書を借り、自分ひとりで書き上げたのだ。(p.95)
斎藤氏の、文学についてのコメントも刺激的だ。
英米において膨大な論文を発表し、偉大な業績を上げた二人の偉人(南方熊楠と野口英世のこと)が、その修行時代に示し合わせたようにシェイクスピアを耽読していたとすれば、「文学の英語など実用的な英語力を身につける助けにはならない」と主張する一部の英語教育学者の説がいかに間違っているかわかるであろう。(p.74)
南方熊楠は、ニ一歳から三四歳まで、青壮年期の一三年間をアメリカとイギリスで過ごした。英語圏に滞在した時間からすれば、ジョン万次郎、神田乃武、津田梅子たちよりも長い。だが、その滞在期間が言語の臨界期、あるいはそれに続く発達期に大きく重なることがなかったため、英語が彼の母語習得をさまたげることはなかった。南方の生涯最大の業績たる粘菌研究や民俗学におけるさまざまな論考は、ほとんど日本語で発表されている。(p.106)
「日本人に一番合った英語学習法」では、次のような英語の達人が紹介されている。
○森山栄之助
○新渡戸稲造(1862〜1933)
○岡倉天心(1862〜1913)
○斎藤秀三郎(1866〜1929)
○鈴木大拙(1870〜1966)
○斎藤博(1886〜1939)
○岩崎民平(1892〜1971)
○西脇順三郎(1894〜1982)
○井上十吉(1862〜1929)
○ジョン万次郎(1827〜1898)
○神田乃部(1857〜1923)
○津田梅子(1864〜1929)
○森有礼
○南方熊楠
斎藤兆史氏の書かれた「英語達人列伝」「英語達人塾」も読もうと思う。