以下、朝日新聞(デジタル版2014年6月17日16時30分)から。
「人殺しを命じられる身を考えて」。本紙「声」欄に10日、そう題した投稿が載った。投稿者は、太平洋戦争の軍隊経験を持つ政治学の碩学(せきがく)、石田雄(たけし)・東大名誉教授(91)。集団的自衛権の行使容認の動きに、「戦争を経験した人間として、言っておきたい」とペンをとった。投稿にこめた思いを聞いた。
東北大在学中の1943年、学徒出陣で出征した。関東地方の重砲(大砲)兵連隊などで、終戦まで軍隊生活を送った。
戦争は国民の命を守るため、平和のためだと美しく宣伝されていた。軍隊は国民の期待を背負っていた。自身も愛国心を抱いた軍国青年だった。
しかし軍に入り、飢える国民を尻目に上官が接待で飲み食いするなどの腐敗に幻滅する。命令に躊躇(ちゅうちょ)したり疑問を抱いたりしても、暴力で封殺された。
「権力は批判を受けないと、無限に腐敗する。権力を持った支配者は、安全な場所で仲間同士で都合のいいことをするようになる」
兵士として一番苦痛だったのは、命令されれば人を殺さないといけないことだった。子どもの頃、警視総監の父が就寝中も機関銃を持った侵入者の襲撃を警戒しており、人を殺す武器への恐怖心が染みついた。実際に殺人を命じられることはなかったが、自分と同様に命令されて動いているだけの敵兵を、殺す覚悟はできなかった。
美しい言葉で隠されていた現実を経験した立場から、いまの安倍晋三首相の言説に危うさを感じる。
首相は集団的自衛権で対応する例として、避難する日本人を乗せた米国の艦船を自衛隊が守る例を挙げ、「子どもたちが乗る米国の船を、私たちは守ることができない」と訴えた。
「『命を救う』などと感情に訴える言葉が、無責任な政策決定の口実に使われている。国民は一時の感情を駆り立てる言葉に乗せられず、行使の結果を論理的に予測するべきだ」
集団的自衛権が使えるようになれば、他国を守るための武力行使が容認される。自民公明両党は限定的に行使を容認する方向で調整しているが、条件をつけたとしても、戦場で「条件をはずれるから」と途中で抜けるのは現実的には難しいとみる。
「戦場では命令系統が一元化され、自衛隊は実質的に米軍の指揮下に入らざるをえないだろう。集団的自衛権を認めると米国との関係は有利になるかもしれないが、相手国から見れば、日本は敵になる」
敵を増やす結果、自衛隊員の犠牲、本土への報復、在外邦人への危害など、逆に国民の生命が脅かされる危険が増す可能性を指摘する。小さな武力紛争の積み重ねで緊張が高まり、歯止めがきかなくなったのが過去の戦争の歴史だ。他国での武力行使を容認する結果が、「小競り合いで済むと思っていると、とんでもないことになる」。
自国のための殺人さえためらうのに、日本人の命を救うことにつながるかわからない「他国にとっての敵」の殺害や、それが招く報復は、兵士や日本社会にとって「納得できないものになる」と考える。「政府は、最も大きな犠牲を払わされる人の身になって、政策を考えるべきだ。声を上げてそれを促すのが、主権者である国民の責任だ」(高重治香)
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いしだ・たけし 1923年生まれ。学徒出陣後復員し、東大で故丸山真男に師事。東大社会科学研究所長、千葉大教授などを歴任。著書に『日本の政治と言葉』ほか。
■10日付「声」の要旨
集団的自衛権の容認などにより、海外で「敵」とされた人を殺す任務を果たす兵士が必要になる。私は学徒出陣の時、人を殺す自信が持てなかった。しかし、命令されれば誰でも、いつでも人を殺さなくてはならないのが軍隊だ。戦争で人を殺した米兵が、心の問題で悩んでいる例は少なくない。安倍首相には、殺人を命じられる人の身になって、もう一度憲法9条の意味を考えてほしい。(東京本社版掲載)