「(終わりと始まり)憂国のラップ 日本の若者は歌えるか 池澤夏樹」

amamu2015-05-12


 以下朝日新聞(デジタル版2015年5月12日16時30分)から  
 

 ふらりと入った「逗子海岸映画祭」がその晩は「アート・オブ・ラップ」を上映していた(公開は二年ほど前)。

 有名ラッパーであるアイスTが仲間たちを訪ねて話を聞き、少しばかり歌ってもらう。ニューヨークとデトロイトとLAを回って、総勢四十七名が出演というドキュメンタリー・フィルム。

 ぼくはラップないしヒップホップにはまことに暗い。CDなどで聞いても、また YouTube で見ても、歌詞がわからない。あの早口はぼくの英語の能力では聞き取れない。だから敬遠していた。

 しかし映画はよかった。歌う部分に周到な字幕があって、見ると聴くと読むが一体化して、ようやくトータルに観賞することができた。おもしろくて、ぐいぐい引き込まれた。

 ラップは半分は音楽で半分は詩の朗読である。この比率が大事。単純な言葉をいくつか並べて小さなイメージを作り、それをライム(韻)で繋(つな)いで先へ先へと駆動する。走り抜ける無数の音=声を聞くうちにやがてトータルな絵柄が見えてくる。

 選ばれる言葉は尖(とが)ったものが多い。発祥からして黒人の文化だから、まずは社会的弱者の訴え。「怒りを伝える方法が必要だった」と彼らは言うけれど、そう単純に怒りばかりではない。語彙(ごい)の選択の幅が広くて、イメージがフレーズごとに飛躍してわーっと膨らむ。躍動感が魅力だ。

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 こういうものを作り出すアメリカにやはり感動する。感動なんて陳腐かなと思いながら、でもヒップホップの歌詞は紋切型(もんきりがた)ではないとも考える。言葉が鋭利だから。

 「逗子海岸映画祭」という企画がそのままアメリカだ。

 砂浜を仕切ってスクリーンを設置し、観客は千円払って砂の上に坐(すわ)って映画を見る。ビールを飲んでも、お喋(しゃべ)りしても、またごろんと寝て空を見るのも勝手放題。ぼくは遅れて行ったのでスクリーンのずっと斜め横に坐ることになった。映画館ではあり得ないことだが、ここでは映像が見えてサウンドが聞こえて字幕が読めればOK。帰る人もいるから少しずつ真ん中に近い方に移動する。

 半ば夜のピクニック。夜なのに就学前の子供たちが走り回っている。レストランとバーがあって、食べ物・飲み物が充実している。小さな店で小粋な小物を売っている。夜風が気持ちよく、ゆるむ一方で祝祭感もある。

 この感じ、何かと思ったら、ウッドストックだった。これまた映画でしか知らないが、一九六九年八月十五日から三日間のロックのフェスティバルで、四十万人が集まったという。

 あるいは更に前、一九五八年のニューポート・ジャズ・フェスティバルの記録である映画「真夏の夜のジャズ」。演奏場面と、快走するヨットの動画を交互に重ねた構成が、「アート・オブ・ラップ」では都会風景の空撮に置き換えられていた。色の処理がすばらしい。

 こういうものをぜんぶアメリカの若い連中からもらった。

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 日本に限らず、現代人の生活様式の相当部分がアメリカに由来している。 モノで言えば、小説『オン・ザ・ロード』のカーライフが各国に広まり、TVやPCが普及し、アップルは遂(つい)に人々の手首にまで進出してきた。

 カルチャーの方はラップなどほんの一例。もしもアメリカを外したら現代の文化シーンはすかすかの空洞になってしまう。

 アメリカでは社会の重心が若い方にある。だから未熟で野心的な者がやる気になり、それがうまくゆくとたちまち全体を席巻する。グローバルという増幅装置はアメリカの発明品だ。

 若いアメリカはそれ自体ですでに一つの世界である。多くの民族を抱え込み、抗争と繁栄と悲哀をすべて備えて完結している。

 それに対して、若くないアメリカは忌まわしい。外に対して攻撃的で、独占で肥え太り、強引で押しつけがましい。そういう政治家たちが君臨していて、だからオバマでは悪辣(あくらつ)の度が足りなかった。彼は実年齢ではなく姿勢において若すぎた。

 つまり、同じく映画で言えば、「アート・オブ・ラップ」に対して「アメリカン・スナイパー」のアメリカがあるのだ。イラク戦争で百六十人を殺した伝説の狙撃手の帰国後の苦悩もまたアメリカ。戦争によって潤う人々がおり、それに傷つく者が内外にいる。

 そして、『宰相A』(田中慎弥)こと安倍晋三が今回この国を安保の鎖で縛りつけたのはこの忌まわしい方のアメリカだった。

 これからやって来るそういう不幸、そういう絶望を歌う歌を、若い日本は作り出せるか? 権力の座にある老人どもの恫喝(どうかつ)に耐えて歌えるか?

 きみたち、どうなのだ?