「反戦・反原発訴える、菅原文子さん 自分の頭で考え発言を」

 以下、毎日新聞(2015年8月6日)東京夕刊特集ワイドから。

 戦後70年の夏、この国は曲がり角にある。安倍晋三政権は、反対意見を押し切るように安全保障関連法案の成立を目指す。東京電力福島第1原発事故が収束していないのに、川内原発九州電力)の再稼働は目前に迫る。何かが、おかしい。昨年11月に亡くなった菅原文太さんの遺志を継ぎ、反戦・反原発を訴えている妻文子さんはどんな思いで過ごしているのだろう。【小林祥晃


 南アルプスや八ケ岳を望む山梨県北杜市に、文太さんが2009年に開設した「おひさまファーム竜土自然農園」はある。訪れた日は、強い日差しが容赦なく照りつけていた。「暑かったでしょう? ここは太陽を遮るものがなくて、日照時間が日本一長いと言われているの」。ログハウス風の事務所で迎えてくれた文子さんが笑みを浮かべて話してくれた。この地で有機農業を志す若者とそばやエゴマなどを生産している。

 下積み時代の文太さんと結婚し、トップスターへの道を二人三脚で歩んできた。俳優を「引退」し、農業に携わることに異論はなかったのか。「夫も私も戦中戦後の食べ物がない時代が原点でした。だからお金を持っているより、畑のある生活の方が安心なので農業には賛成しました」

 文子さんは真珠湾攻撃(1941年)の翌年に東京で生まれ、すぐ両親や姉と共に静岡県疎開した。終戦時は3歳。戦争の記憶は、防空壕(ごう)の暗さと食べ物がない暮らし。「疎開先で食べたのはシイタケばかり。砂糖なんてなかなか口にできなくて……。だから今も食べ物を備蓄しておかないと安心できないのよ」

 戦後70年たった今も「再びあの生活に戻ってしまうのでは」という懸念が拭えない。それは幼少時のひもじさのせいだけではない。「国の歴史は上って40年、下って40年と言うでしょう。歴史は繰り返す、という気がしてならないのです」

 「上って40年……」とは、作家の半藤一利さんら多くの識者が指摘する「日本は80年周期で上昇と下降を繰り返す」という仮説。明治政府成立(1868年)後の日本は急速に近代化し、37年後の日露戦争の勝利(1905年)で頂点に立つ。その後、関東大震災を経て第二次世界大戦へと突き進み、40年後(45年)の敗戦でどん底に落ちた。戦後日本も40年が節目。高度成長期を経て80年代後半に景気は過熱。しかし、バブル経済の崩壊後は、長い下り坂から抜け出せない。次の40年の節目となる10年後には、再びどん底に落ちるのでは、との心配が募る。

 「集団的自衛権を巡る議論を見ていると、戦前と同じ道を歩んでいるようです。それに国の借金は1000兆円を超え、ギリシャのような財政破綻が起こるかもしれない」

 さらに倫理観の低下が不安に輪をかける。「礒崎陽輔首相補佐官が安保法案を巡って『法的安定性は関係ない』と言い放つなど、自民党議員の問題発言が続いています。他にも、新国立競技場の問題で露呈した無責任体質、民意を無視する原発再稼働への動き。倫理観が地に落ちたとしかいいようがない。日本は経済格差だけでなく、倫理観格差も拡大しています」

 そう嘆く文子さんは今春、新たな活動を始めた。沖縄県の米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設に反対し、作家の佐藤優さんや映画監督の宮崎駿さんらと共に基地建設を食い止めるための「辺野古基金」の共同代表に就いたのだ。米軍基地問題には文太さんも深い関心があったが、決して夫の遺志に従っただけではない。「社会的活動は人として当然」と話しながら顔を真っすぐ向けた。

 「民主主義は誰かが守ってくれるものではありません。憲法に書かれている通り、国民が不断の努力で守ってゆくもの。夫はその務めを果たした。私も自らの務めを果たしたいのです」

 だからこそ、日本人の気質が気に掛かる。国民一人一人の意識は決して低くはないと思えるのに意見を言わず、「空気」を読んで波風立てないことを優先するところだ。「必要なのは、周りに流されず、自分の頭で考えて声を上げること。菅原も勇気を持って反原発や平和を語りましたが、それは誰もがやらなければならないことなのです」

 文太さんの死後、「文太さんにはもっと生きて、発言してほしかった」と声を掛けられる。「でも、それは違う」と、文子さんは毅然(きぜん)と言葉を継ぐ。「あなたが発言する番でしょう、と言いたい。一人一人が違う場所、違う言葉で発言することが大切なのです」

 変化の兆しも感じている。「政治に危機感を持ち、真剣に憲法を学ぶ人が増えています。また、安保法制や原発再稼働に対して、若者を中心に新しい形の反対運動も始まった。多くの人が、今までの“お任せ民主主義”ではだめだと思い始めた。新しい社会を築くチャンスなのです」

 日が傾き始めた頃、文子さんの話は文太さんのことに移っていった。昨年の沖縄知事選で、文太さんが翁長雄志(おながたけし)氏(現知事)の応援演説に立ったのは11月1日。亡くなる27日前のことだ。体調は既に悪かったが、一言一言ゆっくりと、しかし力強くこう呼び掛けた。

 <政治の役割は二つあります。一つは国民を飢えさせないこと。安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これが一番大事です。絶対に戦争をしないこと>

 聴衆を沸かせたこの言葉に、文子さんはもう一つ付け足したいと話した。「それは、良い社会をつくることです。若者の死因のトップが自殺という国は、先進7カ国で日本だけ。政府は『少子化が深刻だ』と、若者に結婚や出産を奨励しますが、自殺を減らすことを考えるべきです」

 良い社会をつくる責任は私たちにもある。「上り調子の40年はお任せ民主主義でやってこられたかもしれない。でも下り坂の40年は『みんなと一緒が安心』という考えでは国は持たない。強引な政治家によって、これまで築いてきた社会が破壊されてしまいます」

 そうならないための鍵は、個人が自立して生きることだと信じている。

 文太さんも同じ思いだった。亡くなる直前、声を出す力がなかったのか、医師に何か伝えようとしても言葉が出なかった。「そうしたら私に向けて、腕を交差させてバツ印を作りました。何を言いたいのか、すぐ分かりました。『自分はもう死ぬ。何もしなくていい』と」。それから間もなく意識が遠のき、文太さんは静かに逝った。

 誰かに頼るのではない。人生を決めるのは自分だ−−。文子さんに伝えた、文太さんの最期のメッセージ。これは、今を生きる私たちにも向けられているのではないだろうか。


 ■人物略歴

すがわら・ふみこ

 1942年東京都生まれ。立教大学文学部卒。現在は文太さんが設立した農業生産法人を運営しながら、小学館の月刊誌「本の窓」でエッセー「朝の紅顔 夕の白骨」を執筆している。