「日本のオーストラリア本土攻撃 今も根強い「侵略説」」

amamu2015-08-12

 オーストラリア人と話をするには、日本軍によるダーウィン空爆や日本の特殊潜航艇がシドニー湾に迫ったこと、カウラ日本兵捕虜脱走事件などを知らないといけない。
 そして、ココダ・トレイルも、そうした一つである。
 かなり前のことになるが、オーストラリアの高校生と日本の高校生が一緒にココダ・トレイルを歩いてキャンプをするという平和教育旅行はどうだろうかと、オーストラリア人講師の同僚と話し合ったことがある。結局、実現はしなかったが。

 以下、朝日新聞デジタル版(2015年8月11日11時12分)から。

■南方からの視線 戦後70年

 オーストラリアの国家史上、本土を攻撃した唯一の外敵が日本。今も「日本の豪州侵略説」が広く信じられている。

■捕虜8千人死亡

 「日本軍は鉱物資源が豊富なこの国が欲しかったのだ。米軍が来なければ、豪州は日本に侵略されていた」。メルボルン郊外にある高齢者向け施設の個室で、ノーム・ファーネスさん(93)は繰り返した。

 真珠湾攻撃から間もない1942年1月、日本軍は豪州の国際連盟委任統治領だったニューブリテン島(現パプアニューギニア)のラバウルを攻撃した。豪州軍の準備は乏しく、数時間で撃破された。

 ファーネスさんは駐屯していた約1400人の兵士の1人だった。「自分の身は自分で守れ」と命じられ、ジャングルへ逃げ込んだ。10週間後に救出され、粗末な船で島から脱出。帰国時は、80キロの体重が57キロまで減っていたという。

 豪州は1901年に連邦国家となった後も旧宗主国の英国と結びつきが強く、「英帝国軍」や連合軍の一員として戦った。豪州政府によると、豪州軍のニューギニア作戦全体での戦没者は約7千人。特にポートモレスビーの攻略を目指した日本軍との激しいジャングル戦「ココダ小道の戦い」は、高校の歴史教科書に必ず載っているほど有名だ。

 ファーネスさんにとって日本軍は恐ろしい存在だった。東南アジアやニューギニアで約2万2千人の豪州人が捕虜になり、うち約8千人が死亡したとされる。タイ・ミャンマー間の泰緬(たいめん)鉄道の建設などで過酷な労働を強いられた人も多い。

 仲間の多くも捕虜となり、42年6月にラバウルで日本の輸送船「もんてびでお丸」に乗せられた。捕虜輸送を示す印が船になく、7月1日、フィリピン沖で米潜水艦に攻撃されて沈没。豪州人の捕虜や民間人ら1千人以上が死亡した。

 沈没事故の詳細は今も不明だ。ファーネスさんや遺族らが奔走し、70年後の2012年7月1日、キャンベラの豪州戦争記念館の敷地内に慰霊碑を建てた。同年、日本政府から豪州政府へ「もんてびでお丸遭難俘虜(ふりょ)抑留者連名簿」も贈られた。

 ラバウル戦の生存者は今や3人だけだ。その1人のファーネスさんは「戦中戦後は日本を憎んだが、今は欲とカネのせいだと思うようになった。日本軍はその後のニューギニア戦線で負けなければ、豪州に上陸したはずだ」と話した。


■日本に計画なし

 日本軍は豪州本土も空爆した。豪州政府によると、42年2月19日、真珠湾攻撃に匹敵する計242機で北部ダーウィンの空軍基地などを奇襲し、243人が死亡。空爆は43年11月までケアンズなど他都市も含めて58回に及んだ。42年5〜6月には、シドニー湾を特殊潜航艇で攻撃もした。

 「オーストラリアの闘い」などの著者で豪ABC元記者のボブ・ワースさんは「少なくとも42年初めごろには、日本は豪州侵略を考えていた。米国とのつながりを断つために豪州の一部に上陸する意向はあったと思う」と主張する。

 戦史資料などを探して日本を何度も訪れ、豪州への攻撃は「国民と政府を恐怖に陥らせ、降伏させる作戦だった。海軍には豪州上陸を主張した幹部もいた」との結論に達したという。

 こんな日本軍の「豪州本土侵略説」は、豪州では通説のように広まっている。太平洋戦争に関する小説などの著作物では、豪州上陸を日本の戦略として当然のように描いたものが多い。

 ただ、日本軍の狙いは、連合軍が豪州を反撃拠点として利用するのを防ぐことだった。「アジア・太平洋戦争」(吉川弘文館)によると、海軍には豪州本土攻略論もあったが、多くの陸軍の兵力が必要になるため、採用されなかった。

 著名な歴史家のピーター・スタンレー氏は、自身は「日本に侵略の意向はなかった」とするが、「豪州侵略説は人気がある著者のほとんどが受け入れている見方だ」とみる。地方歴史協会や歴史教師ら約50人に尋ねると、「日本が42年に豪州侵略を計画していたとの見解に同意した人は約3分の2いた」とも。

 一方で、対日感情は戦後、好転してきた。

 日本の外務省が09年に豪州で行った対日世論調査で、太平洋戦争について「歴史は知っているが、日本には肯定的な感情をもっている」「日本の関与は今では重要ではない」と答えた人は9割近くに上った。98年調査では、敵国としての日本を「忘れられない」とした人が3割おり、「親日」への変化がわかる。

 日本の経済成長で強まった貿易関係や草の根交流、世代交代などが背景にある。豪州には昨年10月現在で日本人が約8万5千人暮らし、10年前の1・6倍に増加。国別の在留邦人数は米国と中国に次ぐ。

 豪州のローウィー研究所が今年6月に発表した調査では、親近感を0〜100度で表す「国別体感温度」で日本は68度。1位のニュージーランド(83度)、2位の英国(79度)などに続き、アジアでは最も高い5位だった。


■誤解解く動きも

 豪州戦争記念館の軍事歴史家、スティーブン・ブラード氏によると、豪州の人々の思い入れが強い東部ニューギニア戦は日米ではなく、日豪による戦いだったと言える。

 その象徴が「ココダ小道の戦い」だという。マラリアがはびこるジャングルという過酷な環境や、日本軍が優勢だったのを豪州軍が押し返して勝ったという展開が印象的で、多くの映画やドラマ、小説にもなっている。今も毎年、多くの若者らが兵士らの足跡をたどるために現地を訪れる。

 「歴史家の間では、日本軍の南進を豪州侵略と結びつける見方は主流ではない。だが、ココダで豪州軍が勝ち、南進が止まったから豪州は侵略されずにすんだ、と勘違いする人も多い。研究者として、論文や講演などで史実を伝えていくしかないと思います」(メルボルン=郷富佐子)