以下、朝日新聞デジタル版(2017年8月1日07時25分)から。
様々な言葉を繰り出して議論を交わし、時に追及をかわす政治家たちの術。「印象操作」「怪文書」「こんな人たち」という発言を例に、野矢茂樹・東大教授に論理的にひもといてもらった。
最近の政治の場面におけるやりとりを見ていると、言葉の使い方に関して、たいへん勉強になる。
まず、安倍晋三首相からは答えたくない質問への応答の仕方を学ぶことができる。例えば、相手が自分の瑕疵(かし)を明らかにする目的で何か問いを発したとしよう。そのとき、軽々に答えはしない。「あなたの前提が間違っている」と切り返す。私に瑕疵があると考えてそんな質問をするのでしょうが、私に瑕疵はない、と自分を正当化する論を展開する(この部分は長く続くほどよい)。また、その質問は「印象操作だ」と決め台詞(ぜりふ)を言うことも忘れない。以前乱発されていたこの言葉は、きわめて応用範囲が広い。自分に不利な目的で為(な)された質問に対しては、すべて「印象操作だ」と切り捨てることができる。
とはいえ、この手法は場面をまちがえると逆に痛い目にあうだろう。あなたが無実の罪に問われようとしているとして、検事がアリバイを尋ねてきたとする。それに対して「あなたの前提が間違っている」とか「その質問は印象操作だ」と応じるのは、明らかにまずいやり方である。
次に、失言したときの挽回(ばんかい)法を見よう。菅義偉(よしひで)官房長官は、「総理のご意向」と記載のある記録文書を「怪文書」と評した。この言い方が物議をかもしたのは周知のところである。そこで後に菅氏は「怪文書」というのは「不可解な文書」という意味で言ったのだと弁明した。「怪文書」という語は、出所不明な根も葉もない誹謗(ひぼう)中傷の文書という意味である。そこから「出所不明」という部分だけを取り出し「不可解な文書」と言い換える。そして「根も葉もない誹謗中傷」という問題含みのニュアンスは最初からなかったことにする。いささか強引だが、とにかくその場を切り抜ければいいというときには役に立つ技術だろう。
言葉の意味をずらす技術のみごとな例が、加計学園問題についての閉会中審査における小野寺五典氏(自民党)の質問に対する八田達夫氏(国家戦略特区ワーキンググループ座長)の答えに見られる。「政治の不当な介入があったり公正な行政がねじ曲げられたりしたと感じるか」と質問され、八田氏は「不公平な行政が正されたと考えている。獣医学部の新設制限は日本全体の成長を阻害している」と応じた。
問われたのは獣医学部新設の是非ではなく、それを決めるプロセスの公正さである。ところが八田氏は、獣医学部の新設制限こそが不公正なのであり、むしろ今回、不公正が正されたのだと訴えた。「公正」ということの意味がプロセスの公正さから結果の公正さへとずらされている。しかしあまりそう感じさせないところが、巧みである。
安倍首相の「こんな人たち」という発言も問題になった。これに対して首相自身は、閉会中審査において、「選挙妨害に負けるわけにはいかない」と言ったのだと弁明した。ここでは「こんな人たち」という言葉が、その人たちが為した「こんな行為」を意味するものとされている。これも、言葉の意味をずらしていく技の一例である。
安倍首相の「こんな人たち」発言に対して、菅氏は「選挙運動というのは自由だ」と述べてそれを弁護した。つまり、安倍首相の発言は選挙運動における応援演説として適切な範囲のものだというのである。しかし問題は応援演説としての適切性ではなかった。菅氏はここで、批判のポイントをずらしている。批判されたのは、「こんな人たち」という発言に示された首相の人柄や考え方、つまり、反対派を一蹴して拒否するような人は首相としてどうなのか、という点であった。しかし菅氏は「首相として」という観点を「応援演説として」という観点にずらした。相手と同じ土俵に立たないというのは、批判から逃れるときの有効な戦術と言えよう。
だが、こうしたことを学ぶのは、あくまでもこんなやり方に騙(だま)されないためである。言葉をねじ曲げるようなやり方を自ら振り回すべきではない。言葉を大切にしない人を、私は信用する気にはならない。
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〈のや・しげき〉 1954年生まれ。東京大教授(哲学)、朝日新聞書評委員。『心という難問』で和辻哲郎文化賞。97年『論理トレーニング』を出版。同書を使った授業は10年以上続く。近著に『大人のための国語ゼミ』。