本書は次のように始まる。
My grandfather was born into slavery, and although my mother and my father, Mallie and Jerry Robinson, lived during an era when physical slavery had been abolished, they also lived in a newer, more sophisticated kind of slavery than the kind Mr. Lincoln struck down.
("Jackie Robinson I Never Had It Made" p.3)
「私(ジャッキー・ロビンソン)の祖父は奴隷制のもとに生まれた。私の母と父、マリーとジェリー・ロビンソンは、身体面での奴隷制が廃止された時代に生きたが、同時に両親は、リンカーン氏が打ち砕いた奴隷制よりも、より新しい、より巧妙に仕組まれた奴隷制のもとで生きることとなった。」(拙訳)
この冒頭の一文が、白人社会の中で黒人として生きていくという、ジャッキー・ロビンソンの生涯を象徴的に物語っていると言わざるをえない。
ジャッキー・ロビンソンが小さい頃、父親は5人の子どもと母を置いて、近所の人妻と出ていってしまった。父親が戻ることはなかった。5人の子どもと妻を置き去りにしたことは正当化しえないが、父親自身が抑圧の犠牲者であったかもしれないとジャッキー・ロビンソンは書いている。
母は勇気をだして一家とともに南部からカリフォルニアはパサディナに逃亡する。
パサディナでジャッキーは、白人の女の子に悪罵(N*word)を投げつけられ、ジャッキーも白人蔑視の言葉を投げつける。"cracker"という語彙が貧困白人層(poor whites)を指すことは知っていたが、次のジャッキー・ロビンソンの思い出は、子どもが差別意識をもつとしたらそれは差別意識をもつ大人の反映(悪い意味での「教育」)であるというよい見本になっている。
We lived in a house on Pepper Street in Pasadena. I must have been about eight years old the first time I ran into racial trouble. I was sweeping our sidewalk when a little neighbor girl shouted at me, "Nigger, nigger, nigger." I was old enough to know how to answer that. I had learned from my older brother that, in the South, the most insulting name you can call a white person is "cracker." That is what I called her, and her father stormed out of the house to confront me. I don't remember who threw the first stone, but the father and I had a pretty good stone-throwing fight going until the girl's mother came out and made him go back into the house....
("Jackie Robinson I Never Had It Made" p.5-p.6)
「私たちはパサディナのペッパー通りの家に住んでいた。人種問題でのいざこざに初めて巻き込まれたのは私が8歳のときのことだったと思う。側道を掃除していたとき、近所の少女が私に向かって「ニガー、ニガー、ニガー」と叫んだのだ。こうしたときどうすべきか、私はすでにわかる年頃になっていた。白人を呼ぶ際に南部で最も侮辱的な呼び名は「クラッカー」であると兄から私はすでに習っていたからだ。それで彼女をそう呼ぶと、私と対峙するために彼女の父親が家からすっ飛んできた。どちらが先にいちゃもんをつけたのかは覚えていないが、母親が出てきて父親を家に引き返させるまで、私と父親とのすごい口ゲンカは続いた」(拙訳)
この頃のジャッキーは、黒人・日系・メキシコ系の貧困層の子どもたちで徒党を組んで食べ物の盗みや悪さをしていた。
それでも自動車工場の工員や牧師ら、ジャッキーにそんなことを続けていてはいけないよと助言をし助けてくれる大人もいた。
アメリカンフットボール・バスケットボール・野球・陸上競技など、スポーツが得意だったジャッキーは、さまざまな申し出を受けるが、UCLAに進み、バスケットボール・野球・アメリカンフットボール・陸上競技で活躍し、後に妻となる女性レイチェルとも出会うことになるが、黒人が職を得るには大学にいても役にたたないと2年でUCLAをやめる決意をしてしまう。
若者を育てる運動コーチのような仕事を探し、そうした助手のような仕事につくことができたが、ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、そのときアメリカ合州国はまだ戦争に巻き込まれていなかったが、すぐ失業となってしまった。
当時、アメリカンフットボールもバスケットボールも黒人選手を雇うことのない時代であった。唯一申し出のあった仕事はホノルルベアーズ(アメリカンフットボール)での仕事で、実際に行ってみると、ハワイの真珠湾近くの建設会社であった。ジャッキー・ロビンソンは、平日は建設会社で働き、日曜日にアメリカンフットボールでプレーをした。メジャーリーグではなかったが、黒人・白人がまざってプレーをすることができた。11月にフットボールシーズンが終わり、カリフォルニアに戻りたかったこともあり、1941年12月5日、ホノルルを船で離れた。真珠湾攻撃のあった2日前のことだった。
自宅に戻って、当たり前のように、召集を受け、自分の役目を果たそうと考えた。
軍隊では、上官に楯突かないタイプなら問題ないが、ジャッキー・ロビンソンはそうしたタイプではなかったが、この辺のエピソードは省略する。
ジャッキー・ロビンソンは、戦後の仕事を探していた。
知り合いから黒人野球チームMonarchsが黒人選手を探していると聞かされ、春のトレーニングからテスト生として採用された。ひと月400ドルの収入はロビンソンにとって大きかった。
当時、黒人野球と白人野球との間の壁は確固として存在していて、自分が生きている間にその壁が崩れ落ちることはないと思っていた。野球をやりたい黒人は劣悪な条件と環境下で黒人野球をやるしかなった。
しかし、それでは、母を助けることもレイチェルとの結婚も、展望を開くことができない。
そこに 黒人差別野球Jim Crow baseball)に挑戦しようと決めたメジャーリーグのブルックリンドジャーズのブランチ・リッキーが登場してくる理由があった。