「なんで英語やるの?」中津燎子(1974)を読んだ

「なんで英語やるの?」(1974)

 「なんで英語やるの?」中津燎子(1974)を読んだ。

 初版は1974年だが、私の持って版は1981年度版。

 著者の英語歴の詳細の紹介は避けるが、アメリカ合州国のシカゴで9年間暮らし、さまざまな移民の英語にも触れて生活していた。冒頭に著者が英語を教えるきっかけとなった生徒の話がでてくる。

 AFS高校交換留学生の女子学生の英語の発音をみてほしいと言われた著者が、気軽に引き受けたが、その女子学生の英語の発話が一言もわからなかったという話が興味深い。「アウウクウ」と聞こえる音が"Our  school"であったことに驚く。

 この女子学生に伝える著者いうところの「最大公約数的基礎ルール」がいい。

一、英語は、人間同志の言語で、お互いの医師を伝達するために存在し、あらゆる他の国の言語と対等である。

二、英語は、ある規定によって発せられた音を伴い、しかも、音を重視する聴覚型言語である。

三、英語は、腹式呼吸で発声し、発音する。

四、英語は、自他を明快にわける思考を土台にしている。 (p.20)

 よく知られているように、「よく呼吸をし、舌をよく動かす言語で育った外国人は発音に関するかぎり、日本語はやさしくてすぐおぼえる」という。

 わめく必要のない日本語の発話。静かにやさしい音を出す日本語。学校で「破裂音」「呼吸」「腹式呼吸」なんて教えることはない。

 他に、幼児に外国語を教えることの危険性や、日本の英語教科書の問題や、英語の教え方についての著者の見方は的確だ。

 著者は次のように言う。

…英語の教え方が、まるきり、言語として教えるのではなく、モールス符号か、化学記号の組み合わせと同じように教える。勿論、文法が最優先するが、その文法を教えるのに、そうした徹底した、クイズかパズルのような、記号組合せ方式でやるわけだ。よく英語問題集などを見ると、カッコの中に何々をいれろ、としてある、あれだ(中略)(改行)英語がおかしいと言う文句の理由の第一はそうした記号組合せ方式でかっちり教えられた中学生が高校になっても、殆ど、英文そのものがわからないと言う珍現象がおき、そして、塾や、家庭教師で改めて英文の読解力をつけようとしても、一旦入った記号式概念が、文章の方にどうしてもとけてゆきにくく、混乱したまま大学まで行ってしまう。こう言う事が日本人一般の英語不得手の一員になっているのではないか。英語の本を読む事は勿論、簡単な文章さえまともに読解出来ない。従って作文力はもっとない。会話だって決った方式の会話を丸暗記する以外、自分自身の意志を表現しようにも、基本的な作文力がなければ何ともならない。(p.324-p.325)

 「英語教師の条件」が的確でたいへん参考になる。

 「英語教師は、英語とは文法が先に出来たものでなく、人間が音から先に作って言葉を作りあげたもので、文法はずっと後から便宜上出来たものだと言う事を、骨の髄まで理解している事が第一条件である」と著者は言う。また「文法を習ったり、教えたりする以前に、英語の歴史や発生の様々な過程を日本語と比較しながら教え、習う時間が、絶対に必要だ。殊に生徒にそれを教える英語教師は例外なしに、ラテン語の英語への影響の歴史を簡単でもいいからぜひ、一応頭にいれておく必要があると思う」と書いている。

 「第二の条件は発音だ。(中略)(改行)私は、英語の原音が自分で出す事が出来てききとれれば、格別、それ以上の流暢さは必要ないと思う。原音をみっちりやっていれば、単語の発音が出来、文章も出来る」。

 「第三の条件は思考様式である。(改行)…英語教師全員が、英語で思考し、生徒にもそう教えるべきだなんて言う事はとんでもない。しかし、英語教師は、英語はどう言う思考形態が土台になっているか、と言う事を百%知って、理解しているべきではないか。これも口でそう言うだけでなく生徒に説明し、納得させ得るだけの理解をもっていてほしいのである」。

 「第四の条件は、日本語の勉強である。(改行)…何故なら英語と日本語を比較して教えなければならない以上、同等に力をもっていてほしい」。

 「第五の条件は、英語教師の資格の中に、二年間の英語使用国での留学を絶体条件としていれてほしいのである。採用した時点で、二年のインターン課程を海外でさせる、と言う条件でなければ、まともな教師は育たない」。

 「第六の条件は、英語の外人教師についてであるが、(略)その人の日本語の知識は、日本人の英語教師が英語を知っている程度、又はそれ以上に持ってほしい。でなければやとわないで戴きたい」。

 「第七の条件」は、「入試英語について」だが、これは割愛する。