本書によって眼が開かれたことは少なくない。
たとえば「母国語」でなしに「母語」(ぼご)というコトバは著者から初めて学んだ。
言語学者・田中克彦氏による労作である本書は、ことばに関心を寄せる全ての人たちにおすすめだが、もちろん英語教師にもおすすめの一冊である。
さて「一 「一つのことば」とは何か」は、ソシュールの引用から始まる。
言語と方言とのちがいがどこにあるかを言うのはむつかしい。方言であっても、それによって文学が書かれれば言語だと呼ばれることがある。ポルトガル語やオランダ語がそうであるように。
つまり、あることばが独立の言語であるのか、それともある言語に従属し、その下位単位をなす方言であるのかという議論は、そのことばの話し手の置かれた政治状況と願望とによって決定されるのであって、決して動植物の分類のように自然科学的客観主義によって一義的に決められるわけではない。世界の各地には、言語学の冷静な客観主義などは全く眼中に置かず、小さな小さな方言的なことばが、自分は独立の言語であるのだと主張することがある。(p.9)
…言語とは、多かれ少なかれ頭のなかだけのつくりものである。別の言いかたをすれば、言語は方言を前提とし、また方言においてのみ存在する。それに対して方言は、言語に先立って存在する、よそ行きではない、からだから剥がすことのできない、具体的で土着的なことばである。それが観念のなかのことばではないという意味において、首都で話されている日常のことばは、厳密な言いかたをすれば、程度に観念のなかの標準型に近づけられた首都方言である。(p.19)
…ソシュールがおこなったのは、言語にまとわりつく、こうした社会的、政治的威信を骨ぬきにすることだったのである。
ソシュールが我々に見せようとしたことは一見実に平凡なことがらのようにも思われるが、じつはそうではない。凡人はいつでもことばを差別の網の目を通してながめるようにならされていて、そこからぬけ出すことは案外たやすくないのである。ソシュールはその網をとり去って、ことばそのものを我々の目の前に置いてくれたのである。そのことによってはじめて、我々の日常語でことばを呼ぶ名がいかに差別の色に塗り込まれているか、いや、差別こみでなしには、もはやことばを呼ぶことができなくなっていることをあきらかにしてくれたのである。(p.24)
また、すばらしい論稿である「二 母語の発見」は、柳田国男の引用で始まる。
我々は一人残らず、始めて日本語を学んだのは母からであった。
-柳田国男
…ことばというものの本質がそうであるように、それはまず話されていなければならない。ときには文字があって書かれることがあるかもしれないが、文字は二次的につけ加わったものにすぎない。このことはたいへん重要なので、うるさいようでもくり返し言っておかねばならない。現実にある言語共同体が用いていることばであって、話されているだけで書かれることのないことばは存在するが、書かれるだけで話されることのないことばは存在しない。つまり、話すことはつねに書くことに先行する。(p.26)
生まれてくるときに母を選ぶ権利が子供にないのと同様に、子供はことばを選ぶ権利がない。(p.27)
「我々は親から受けた肉体を通じて自然とつながり、母のことばによって社会とつながる」(アイヒラー)のである。(p.27-p.28)
母から同時に流れ出す乳とことばという、この二つの切りはなしがたい最初の世界との出会いの時点に眼をこらすことによって、ことばの本質に深くわけ入っていく手がかりが得られる。ところが、ものごとを体系的に考える訓練のできているはずの知識人たちはしばしばここを素通りして、いきなりことばの議論に入っていく。すなわち、ことばについての評論は、最初から国家や政治の場に置かれてしまっているのである。(p.28-p.29)
生まれてはじめて出会い、それなしには人となることができない、またひとたび身につけてしまえばそれから離れることのできない、このような根源のことばは、ふつう母から受けとるのであるから、「母のことば」、短かく言って「母語」(ぼご)と呼ぶことにする。(p.29)
ラテン語がひろまっていった地域には、それ以前からの土着の、さまざまな言語が話されていたが、それらが具体的にどんな言語であったかを再構成することはむつかしい。しかし、おおいかぶさってきたラテン語の下敷になりながらも、かろうじて残ったと思われているバスク語とか、消えてはしまったが、かぶさったラテン語に、その土地土地のくせを刷り込むかたちでその名残を残した数多くの言語のことばあれこれと想像されている。いずれにせよ、イベリア半島のスペイン語、ポルトガル語、さらにフランス語とその南につづくプロヴァンス語、イタリア語、さらに東のほうに寄ったルーマニア語など、こうした現存の諸言語はすべてラテン語を祖とし、それが土地土地で独自の発展を示していった結果、成立したものと感がられている。したがって、これらの言語はラテン系諸語と言ったり、ローマの国名にちなんでロマン(ス)諸語と読んだりしている。(p.31)
ここで大変面白いのは、書きことばをもっていたラテン語の話である。「ごく大ざっぱに図式的に考えてみると」、「言語知識のタイプ」は、以下のようになるという。
(1)ラテン語を書くだけでなく、母語としてもそれを話していた人
(2)ラテン語を書きはするが、自分の母語はそれと全くちがう人
(3)ラテン語を全く書かず、理解もせず、自分の母語もそれとはまったく別物である人
(p.32)
そして、「どのタイプの人が多いかといえば、言うまでもなく(3)が圧倒的に多い。まず、女と子供は例外なくここに入る。人口の半分以上を占める女と子供は、読み書きと政治の世界からはじめから閉め出されていたために、かれらは生まれながらに自然に話していたことば、すなわち母語以外のことばを知るはずはなかったのである」と著者は喝破する。
なるほど。これはたいへん示唆に富む話である。
著者は続けて、「日本にシナ古典語、すなわち漢文が入ってきたときも同じ状況が生じた。ごく一部の、外国語(シナ語)をよくするエリート官僚、文化官僚のほかは、いっさいの文字を知らず、ただただヤマトのことばを話していたのである。もしも女までがシナ文化にうつつをぬかし、漢文にかぶれて、日常生活や育児にまでそれを使おうとしたならば、ヤマトのことば、すなわち日本語ははるか昔に忘れ去られ、この列島の上には、くずれた、ヤマトなまりのみじめなシナ語しか残らなかったにちがいない。あとでも説くように、民族の言語を、それとは知らずに執拗に維持し滅亡からまもっているのは、学問のあるさかしらな文筆の人ではなくて、無学な女と子供なのであった。だから女こそは日本をシナ化から救い、日本のことばを今日まで伝えた恩人なのであったと言わねばならない」と述べる。
この箇所を読むだけでも、本書の価値はあると言わねばならない。
また、この箇所から、漢文の話だけでなく、今日の英語の世界進出を類推的に考えることもそれほどむつかしい話ではないだろう。
「ダンテの俗語論」「母語の思想」「母語と母国語」「「最後の授業」の舞台」「純粋言語の神話」「さげすまれることば」「国家をこえるイディシュ語」「ピジン語・クレオール語の挑戦」など示唆に富み、紹介したい話がたくさんあるけれど、今日はこの辺で終わりにしておく。