映画館ストランドで”Kagemusha”*1を観た。日本にいるときこうした時代劇はあまり好きではなかったが、哲学的に人間の生き方を見ると結構面白かった。さすが世界のAkira Kurosawaである。クロサワは、クラスメートのニコラも名前を知っているくらいだ。
映画を観に出かける前にニコラから電話があり、今日、核兵器についての講演会があるから行かないかと誘われた。前にスーザンと話をしたときに、興味があるから知らせてくれと言っておいたからなのだが、今日はあいにくVan Morrisonのコンサートがあり、残念ながら断らざるをえなかった。「これからAkira Kurosawaの映画を観にいく」と言うと、「行きたいが、用事があって残念ながら行けない」と言っていた。
外国映画が字幕スーパーで十二分にわかるのかという疑問があるから、どちらかといえば、自分としては、日本映画を外国人に見せるつもりはない。
例えば、「男はつらいよ」の寅さん。あの口上や口調は、まず平均的日本語がわかった上で面白みがあるのであって、方言などのニュアンスでいえば、翻訳不可能なところがある。工夫して、それぞれのお国訛りや方言に当てはめるぐらいはできても、感じはなかなか掴めないのではないか。勿論、外国人が外国のものに触れることは良いことであって大いに意味があるが、母国語*2話者に面白いからといって、外国人に面白いという保障は全くない。勿論ニコラのように興味があり本人が行きたい場合は別だが。
今日の「影武者」を、私は、二つの眼で観た。ひとつは、日本人としての眼。もう一つは、外国人の眼。アメリカ人の視点に近いけれど、はっきり言ってアメリカ人の視点というものがわかっているわけではないので、日本人とは違った視点と言った方が正確なのだが。
すると、まず漢字だが、「風林火山」、これが難しい。これはシンボルだが、これがわからないだろう。日本史の「知的枠組み」(frame of reference)がないので、「武田家」、「織田家」、「徳川家」と言われても、その性格、シンボルとしての人物像がピンと来ない。おまけに仲代達矢という俳優も何者だかわからない。ということから、ただのいくさ映画と写る可能性が高い。と同時にやはり、人間の可能性は深いもので、わからないまでも、「人の生き方」は見えるものだ。ただし、それは見ようとしなければ見えないものであって、つまり「人間の生き方」を真剣に模索していないと見えないに違いない。
逆に外国語映画を私たちが観るとき、はっきり言って字幕スーパーでは半分もわからない。大事なものを見落としている可能性がある。
自国の自分の知的枠組み(frame of reference)で観ているということを自覚しつつ、わからないものを観ているのだということを常に頭に入れておく必要がある。