海外旅行が意義あるのは、相対的な見方を学べること

 海外旅行が意義あるのは、物事を相対的に観れることだろう。ある国では、スープを音をたてて飲み*1、ある国では、それはひどくエチケットに反する。ある国ではゲップは嫌われ、ある国では、それが食事に対する最大の褒め言葉になる。モノの値段など、本当に相対的なもので、この点、スーパーのダイエーでもまけようとする大阪人に学ぶ必要がある。
 英語から日本語を考え、日本語から英語を考えられるようになったのは、異文化との接触のお陰だろう。焼酎とスコッチとどっちが高級かとか、サントリーロイヤルは高級かということも外国へ来るとわかる。サントリーロイヤルなど、ほとんどが税金で、ここサンフランシスコでは比較的安く買えてしまう*2
 私の発音がいくら向上したといっても、アメリカ人から見ればやはりおかしな変な発音であることに違いない。日本語を流暢に話す外国人を想像してみれば、多少のアクセントが残る方が普通だ。その点では、発音が上手で、かっこいいというのは、何と植民地的発想なのだろうか。もちろん、うまいに越したことはない。発音は大いに真似るべきで、自分も「ああ、日本人の口の開け方だな」と思うことが少なくない。発音向上という点で、努力もすべきだ。しかし、問題はあくまでも内容だ。まるで日本人と同じ外国人なんて面白みがない。まるでアメリカ人のような日本人なんて面白くない。発音が多少おかしくとも、内容のある外国人を俺なら友人に選ぶ。その意味で、自分はもっと日本のことを知らなくてはと思う。と同時に、もっと外国のことを知らなくてはと思う。つまり中味が重要ということだ。
 山田洋次監督の映画「家族」を観たときも思ったのだが、「日本とは何か」。日本はとても狭いけれど、それでもその中に多種多様な世界があって、その意味では広いのだ。青森県、北海道…。アメリカ合州国はもっと広い。何がアメリカか。何がアメリカ人か。
 サンフランシスコのマーケット通り(Market st.)は車を持っていないstreet peopleの溜まり場だが、アメリカンフットボール49ersが優勝したときのパレードを見たまえ。


 このパレードは本当に凄かった。50万人の人々が、サンフランシスコにどっとくり出したのだから。スポーツにしか関心がなく、スポーツにしか人が集まらないのかと、ニコラがこのパレードを憂えていて、どこも保守化してきてスポーツと自分のことしか考えない人間が多くなったとニコラと意見が一致したことはあるけれど、このパレードで、中流アメリカ人をたくさん見ることができた。日本人には見えない境界線があって、中流以上の人はどこかに隠れているかのようだ。クラッシックのコンサートに行けば、ドレスアップをした人たちばかりに会える。サンフランシスコの違った面が見える。
 外国語を学べば、違った視点が得られる。前にどこかで読んだ、外国語は人生闘いの武器である、そんな気もしてきた。

*1:英語では、スープは食べるもの(eat soup)である。飲まずに食べれば、音をたてることは少なくなるはず。

*2:国内価格と海外価格は、販売戦略の関係もあるのだろうけれど。