習い事をするには、一流の人に胸を借りないといけない。英語でもトランペットでも、良い先輩、良い師匠につかないと伸びない。指導者はそれほど大事ということ。生徒の方が乗り気の場合でも先生は大事である。生徒が乗り気でなくとも、先生が重要ということは言うまでもない。先生がよくない場合は変えることだ。文句を言って先生が変わるなら、それも試してみる必要がある。それが無理なら、できれば新しい先生につくことだ。先生がダメだから、生徒が全部ダメになるということはありえないが、できれば新しい先生につくことだ。先生とはそれほど大事なものだ。
国語の先生なら中国に行くとよいかもしれない。地理の先生なら、できれば世界各国へ行く必要がある。英語の先生ならば、少なくとも、イギリス・アメリカ合州国、できればその他の国へ行く必要がある。それほど、教師が勉強するということは大事なことであり、金をかけなければならない部分なのだ。教育には金をかけなければならない。条件がないのなら、条件を作り出す必要がある。それは、ひいては、生徒の為、社会と国の為になる。
美術・音楽・言語・歴史を体系的に教える必要がある。体系的ということが難しければ、最終的な目的にしても、人間に興味が湧き、人間が好きになり、今までの人間の歩みを理解し、それを何とか発展させようという意欲と知恵を身につけなければ、学問の意味がない。そういうものとして勉強を教える必要がある。
日本の子どもは、どの程度、勉強について考えているだろうか。
勉強に対する考え方が、受験とかお金の為とか、そのものが性格をゆがめ、人間的な醜さを形づくっている気がしてならない。
明日も、もしかしたらニコラとブルーズコンサートに行くかもしれない。