コトバの洪水が過ぎ去って私の頭に残ったいくつかのマオリ語

 マオリ語では、「テナークェ」というのが、フォーマルな挨拶だ。これを「テナークェ」で返す。よく知られている「キヨラ」は、挨拶としては多少インフォーマルで軽い表現であると教えられた。
 マオリは、年上・年下の年齢を大事にする。朝鮮・日本は儒教の精神から目上の人を敬うわけだが、マオリは血縁関係をとても大事にするところから、目上の人を敬うようだ。
 相手に呼びかけるある種の敬称として、友人には、「エーホア」。年下の男の子には、「エータマ」。年下の女の子には、「エーヒネ」。年上の男性には、「エーコロ」。年上の女性には、「エークィ」をつける。だから、「テナークェ、エーホア」と、「テナークェ」の「ナ」を強めに、最後を少し上がり調子に発音する。
 「テナークェ、エータマ」、「テナークェ、エーヒネ」「テナークェ、エーコロ」「テナークェ、エークィ」と、みな少し上がり調子で優しく発音するとマオリ語になる。この二週間に何度もこれらを聞いたから、これはもう忘れない。コトバの学習では、やはり「繰り返し」が大事だ。無理して覚えようとしないで、自然と頭に残ったもので、なおかつ自分で使ったものは、忘れない。実はそういう「自然なアプローチ」がコトバの学習の基本形だ。私はこれを「友人関係」と同じだと、いつも類推(アナロジー)として生徒に言ってきた。悪友や親友は忘れようとしたって忘れない。ところが、一度しか出会わなかった他人は、当然忘れる。忘れてもいいのだ。その人とは一回きりで、一生涯もう会わないかもしれない人からだ。覚える必要がないかもしれないのだから、そういう人は当然忘れるし、忘れていい。単語学習は、これと全く同じである。頻度数と必要性が大事なのである。
 昨日紹介した「クジラの島の少女 [DVD]」も、少女パイの祖父が出てくるのだが、年上の男性だから、コロ(koro)と呼ばれるわけだ。こうしたことも、容易にわかるようになるから妙なものである。インターネットのあるホームページの「クジラの島の少女 [DVD]」の映画評で、祖父のことを意地悪で許せないというような評価が書いてあったが、これはマオリの文化が全くわかっていないと言わなくてはならない。あの祖父は単に性格が悪くて、孫をいじめているのではない。マオリの伝統的文化を背負って、孫につらくあたっているのだ。だからこの日本の評者は、自分の尺度で勝手に相手の文化を切っていると言わざるをえない。
 サウンドシンボリズム*1ということはあるが、音声には、何の意味もないと考えるのが普通である。たかが音声だと思うのだが、マオリ語の世界に入っていくと、マオリ語の音がなんだか意味を持ってくるから不思議だ。マオリ語の音を聞いていると、遠い祖先の音を聞いているような気もしてくる。マオリ語は、祖先を大変大事にするから、そのせいもあるかもしれないなんて気さえしてくるのである。
 日本語とマオリ語とは案外近いのかもしれない。
 環太平洋文化というものがあるのかもしれない。
 海洋文化をあなどってはいけない。ハイエルダールのコンチキ号ではないけれど、陸地と同様に、海路というものがある。ハワイ島エイブルタズマン国立公園などでシーカヤックをやった私の経験からも断言できるが、海路は交通網としては意外に早く、いわば水路のハイウェイと言うべきものなのだ。
 少なくとも南太平洋の文化圏として、ハワイ諸島や他の島々とニュージーランドとの間には、深い関係があるのだろう。マオリ語で、「女性」「妻」のことを「ワヒネ(wahine)」、女性の複数形は、「ワーヒネ(wāhine)」というが、これなどは、ハワイのコトバに近い。「アロハ ワヒネ」なんていうフレーズをどっかの唄で聞いたような気がしたので調べてみたら、あの加山雄三が「南太平洋の若大将」の中で「アロハワヒネ」という歌を自作自演で歌っていた。
 聞くところによれば、マオリ語は、タヒチ、マルケサス、クック、イースターなどの各諸島と同じ東ポリネシア語群に属するのだそうだ。中央ポリネシア語族のサモア語、トンガ語とも非常に近いという。だから、英語圏で見ると、ニュージーランドはオーストラリアと一緒にされてオセアニアということになるのだろうが、あくまでもこれはイギリスから見た見方に過ぎない。アオテアロアマオリからみれば、一大ポリネシア文化圏ということで、違った見方が浮かび上がってくるのである。このポリネシア文化圏という見方をすれば、日本との関係も見えてくるような気がしてならない。
 また、私の滞在しているワイカトもそうだが、ニュージーランドにはWai-が付く地名が少なくない。「ワイ」(wai)が「水」を意味することは、ニュージーランドの、おそらく誰もが知っている。ここワイカトのkatoは、to flow(「流れる」)という意味で、まさにハミルトン(キリキリロア)を流れる偉大なワイカト川にふさわしい地名になるのである*2。ワイタンギ条約で知られているWaitangiの「ワイ」もそうだ。「水」である。この4月に下見でまわった際に「図解マオリの地名」というこちらの本を購入し調べたことがあるのだが、その本の索引でWai(water)-の付く地名は183以上もあった。一方、ハワイのワイキキは「噴出す水」という意味だそうで、waimanalo(「飲める水」)、waioli(「喜びの水」)と、やはりハワイ語でも「ワイ」は「水」をあらわすのである。ポリネシア文化圏として共通ということで、これは当然のことだろう。あのジェームズ・クックエンデバー号の乗員もアオテアロアマオリのコトバを理解していたわけではなかった。どうしたかというと、タヒチから同行したトゥビアという人物が通訳として大きな役割を果たしたと言われている*3タヒチアオテアロアはかなり離れているから、やはりポリネシア文化圏がもつ共通性ということを考えないと、これは理解できない*4
 わが祖国・日本はどうなのだろうか。地理的に、日本を太平洋文化圏と関連させるのは、全くの的外れではないのだろう。マオリ語の発音は日本語に大変似ているし、「言語活動」のところで書いた「リズム」「スピード」「パワー」の話でいえば、両者の「リズム」がとても似ているのだ。日本語とマオリ語との間に何か共通性があるのではないかと邪推したくなるではないか。
 これはマオリのことではないが、1992年にアメリカ合州国の大西部をパートナーと一緒に自動車で旅行した際に、ネイティブアメリカンの村落を訪ねたことがあった。彼らの顔つきは、私の親戚に近い顔つきの人たちが少なくなかった。その昔、私たちの祖先がベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸を南下したという話があるくらいだから、アメリカ大西部で、私の「おじさん」「おばさん」に会ったとしてもなんら不思議ではない。また、12世紀頃だったか、バスケットメーカーズ(basket makers)と呼ばれていた彼らはユッカという植物を編んで岩場をわらじで歩いていたそうだが、それらの履物がまさにワラジと名づけられていたことを知ったとき、私は日本人とネイティブアメリカンとの親戚関係を確信したほどだ。

*1:川が「さらさら」と流れるとか、「さっと」眼を通すというように、日本語のS音には、「流れ」「速度」のイメージがあり、その意味で、音に意味があるという考え方がある。サウンドシンボリズムとは、音が象徴するものがあるという意味で、音象徴ということ。

*2:イカトは、マオリ語で、waiがwaterを、katoがto flowを意味するので、全体で、Full flowing riverの意味になる。

*3:旅名人ブックス62 ニュージーランド北島」「旅名人ブックス61 ニュージーランド南島日経BP

*4:佐藤圭樹氏の「ニュージーランドすみずみ紀行」(凱風社)によれば、ポリネシアン・トライアングルという言葉の説明として、「ハワイ、ニュージーランド、そして巨大石像モアイで知られるイースター島が形作る三角形がポリネシアの範囲となる」と書いている。