テ アワムツを再び訪れる

第一次世界大戦の犠牲者をまつる碑

 2ヶ月ほど前に訪れたテ アワムツ(Te Awamutu)を昨日再訪した。
 ハミルトンからテ アワムツまでは、3号線を下って、30キロほどの距離で、町中を抜けて郊外に出ると、例のごとく法定速度が100キロだから、所要時間はそれほどかからない。
 テ アワムツの博物館に寄ってから、インフォメーションセンターに寄り、「文化遺産を歩く」(Heritage Trail)という無料案内書(brochure)をもらって、その文化遺産をいくつかを歩いてみた。
 それで以下の内容は、この観光案内所でもらった’Waipa District Herigate Trails TE AWAMUTU New Zealand’を参考にして書いている。*1
 これは例のカーフィアに関する私の下手くそなマオリ語での発表とも重なるのだが、ハワイキ(Hawaiki)から、先住民であるマオリアオテアロアにたどり着いて、一部のマオリはロトルアに定住した。それがアラワ(Arawa)というグループだ。タイヌイ(Tainui)というグループはさらに北上し、さらに南下して、カーフィアを終の棲家としたわけだ。
 このタイヌイマオリが、ハワイキからワイカトにたどり着いたのは14世紀初頭と言われている。
 タイヌイカヌーがカーフィア(Kashia)の海岸に埋められ、このカーフィアを拠点として、ワイカトのキングカントリー(King Country)へと、マオリの定住が広がっていったのである。だから、カーフィアは小さな町だけれど、マオリにとってはとても大切な場所になっている。
 テ アワムツは、このカーフィアのちょうど東に位置しているのだが、川へのアクセスと土壌がよいために、多くのマオリの村(pa)がここに建てられた。
 1775年から1810年にかけては、たくさんの著名なワイカトのチーフと戦士が生まれている。
 初代マオリ王のポタタウ テ フェロフェロ(Potatau Te Wherowhero)、ワイカトの歴史で重要な役割を果たしたと言われているホンギ ヒカ(Hongi Hika)もそうした中の人物である。
 1822年、ピロンギア(Pirongia)近くのマータキタキ(Matakitaki)にてワイパの三角地帯を侵略したのは、このホンギ ヒカであった。マータキタキのマオリは、伝統的な戦闘にはたけていたが、マスケット銃(musket)の前にあっては敗北しか残されていなかった。
 ワイカトのチーフたちは、ヨーロッパ人からもたらされたこのマスケット銃の威力を知ることとなり、ここから亜麻(flax)とマスケット銃との交換が始まるのである。これがワイカマオリとヨーロッパ人との最初の接触であった。
 前にも書いたように、テ アワムツという地名は、マオリ語のawaがriverで、mutuがfinishedだから、「川の終わり」(the end of the river)という意味になり、結局「ここまではカヌーに適しているが、ここから先は歩くしかない」という意味になる。*2
 テ アワムツには、二つの重要なマオリの村があった。オタファオ(Otawhao)とカイパカ(Kaipaka)である。
 マオリ王擁立運動の新聞として、’Te Hokioi’*3があったが、これに対抗する意味で、’Te Pihoihoi Mokemoke’*4という政府の新聞が、マオリ語で印刷された。
 1863年3月、ンガティ マニアポト(Ngati Maniapoto)*5がこの政府の新聞を占拠し、地域からのヨーロッパ人の排除へとつながり、これが1863年から1865年にかけてのワイカト戦争の引き金ともなった。
 1864年には、オタファオの伝道所が、キャメロン将軍(General Cameron)の作戦司令部となり、ワイカト戦争後、元軍人や移民がテ アワムツに大勢住むようになり、1880年の鉄道施設とともにさらに町は発展し、農業、とりわけ酪農で経済的に発展するようになったというのが、そのあらましだ。
 「文化遺産を歩く」で指定されているカイパカ(Kaipaka)という村(pa)の跡地も訪ねてみた。
 第二次世界大戦で命を落とした人たちを記憶に留めるために建てられたメモリアルパーク(Memorial Park)のそばに、クリスティアヴェニュー(Christie Avenue)という行き止まりの通りがある。このなだらかな坂道を登っていった行き止まりに、歴史遺産を説明する立て札があった。
 これはマオリ土地戦争のずっと前のことだが、この立て札の説明によると、1800年代にマオリのグループ間で、うなぎの河口堰をめぐって争いがあったという。あのマタマタのファース塔でも紹介されていたンガティ ハウア(Ngati Haua)の傑出したチーフであったワイレム=タミハナ(Wiremu Tamihana)が、紛争解決のために自分の娘をンガティアパクラ(Ngati Apakura)に差し出したと書いてあった。
 あたりは閑静な住宅街で、日本でいえば、丘の上のちょっとした高級住宅街という風情がある。
 舗装通路に沿って、芝生を切り取っている初老の女性がいたので、話しかけてみると、「1万人ほどの人口しかない小さな町だけれど、リタイアした者にとっては、テ アワムツにはなんでもそろっているから、便利な町よ」と彼女は言った。
 テ アワムツは毎年5万人の見物人を集めるほどローズガーデンが有名で、「ニュージーランドのバラの町」(‘the Rose Town of New Zealand’ ’Rose Capital of New Zealand’)とのニックネームがついている。
 音楽のフィン兄弟(Brothers Tim and Neil Finn)の出身地というだけでなく、ワイカト土地戦争の重要な拠点地であり、戦後は、いわばフロンティアの町になったという意味で、テ アワムツは歴史的にもきわめて重要な町なのである。

*1:テ アワムツの町の歴史に関するオンライン資料では、以下のURLが参考になる。http://www.tamuseum.org.nz/teawamutu.htm

*2:mutuは、マオリ語の授業中、課題をやらされている際に、このmutuを「終わりましたか」という意味で講師が頻繁に使っていたことを思い出す。ロンリープラネットガイドブックでは、このテ アワムツの町名の由来を、’The River Cut Short’と紹介しているが、結果的には同じ内容になるが、語源的には正確な解釈ではないように思う。

*3:マオリ語でhokioiはmysterious night birdの意。

*4:マオリ語でpihoihoiは英語ならpipitで、セキレイタヒバリの意。マオリ語でmokemokeは、lonely, forlorn, secludedの意。

*5:マオリ語でNgatiはpeople of...の意で、部族名(tribal names)と一緒に用いられる。