マタマタのファース塔を訪れる

マタマタのファース塔

 マタマタ(Matamata)は、人口8000人ほどの町である。
 マタマタのあたりは、典型的な田園風景が続き、サラブレッドの調教と育成で有名なところが少なくない。イギリス風のケンブリッジ(Cambridge)もマタマタも、そうした町だ。
 ハミルトンからは、ロトルア方面に東南方面に下って、ケンブリッジを過ぎ、ティラウ(Tirau)までは行かずに、タウランガ方面に左折し、さらに北上して行くのだが、片道63キロくらいだから、ハミルトンからマタマタまでは1時間もかからない。途中の道路は制限速度が100キロの早い道路だ。
 このマタマタにあるファース塔(Firth Tower)というのが見たくて、昨日の午後、出かけてみた。
 私の愛読書のひとつ、ロンリープラネットガイドブックによれば、「ファースはマオリ語を流暢に話し、ワイカト土地戦争の際には交渉相手であった土地のマオリの指導者たちに尊敬もされていた」(Firth spoke Maori fluently and was respected by the regional Maori leaders with whom he negotiated during the Waikato Land War.)との記述があったので、興味を持ち、尋ねる気持ちになったのだ。
 マタマタのインフォメーションセンターに寄って、地図をもらって、町外れのファース塔博物館の駐車場に車をとめて入口に行って見ると、「閉館」(Closed)との看板が出ている。
 受付の女性に「ファース塔が見たくて日本からはるばるやって来たんですけど、閉館とは残念だなぁ」と言うと、「日本からはるばる来たんならしょうがないわね。3時までなら、いいわよ」と、開けてくれることになった。何でも言ってみるものだ。
 入場料は5ドルだというので、財布をあけてみると、どうやら5ドルもなさそうだ。エフトポスとクレジットカードのおかげで、最近はすっかり現金を持たない生活になってしまっている。その上、アレックスとジュディが帰ってきたから、基本的に買い物も必要なくなっている。小銭をかき集めても4ドル50セントしかない。女性は、「あるだけでいいわよ」と言ってくれた。親切で、感じのいい人だ。
 タワー道路に面した、このファース塔とは、イングランドはヨークシャー出身のジョシア=クリフトン=ファース(Josiah Clifton Firth)*1が1882年に建てたもので、彼はオークランドの企業家であった。
 ファースは、穏健派であったことで有名なワイレム=タミハナ(Wiremu Tamihana)*2というマオリのチーフとの友情を通じて、5万6千エーカーという広大な土地を借り受けたという。
 このファース塔は、16メートルの高さで、厚さ45cmの壁をもち、24ものライフル用の小窓がついている。
 ファース塔は、コンクリート建造物としては、ニュージーランドでは初期のものになる。
 マオリとの土地戦争の防衛のために建てられたと思いがちだが、建てられた1882年という年度からしてみれば、マオリ土地戦争はすでに終わっていて、その必要性はなかった。
 マオリ土地戦争は、1870年代初頭には終わったとみる見方が有力だからだ*3
 ワイタンギ条約が結ばれたのが1840年であり、南島のワイラウのワイラウ川でおこったワイラウ川虐殺事件(Wairau Massacre)が1843年で、第一次マオリ戦争が起こり、これがワイタンギ条約締結後の最初の武力闘争となる*4。1859年から第一次タラナキ戦争。1860年にワイタラの土地買収を端に発した第二次マオリ戦争。そして、1863年から1864年にかけてのワイカト戦争。細かなものを入れれば、武力闘争は数え切れないが、1870年代初頭には、イギリス系白人の圧倒的勝利によって、マオリとの土地収奪戦争は、ひとまず終結している*5
 だが、ファース自身は、マオリとの関係に安心という確信を持っていなかったのかもしれない。なんといっても、イギリスとマオリとの関係は、個人的な信頼関係がどうあろうと、客観的にみれば、支配者と被支配者の関係なのだから。
 塔の内部に入り、階段を上って、一番上の見晴らし台まで上ってみる。
 見晴台から眺めると、広大な田園風景が広がっていた。
 ちょうど日本のお城の内部に歴史的な展示物が置いてあるように、マオリ関係の装飾品や、当時の土地の区画整理をしたような図面やらが置いてある。壁のボタンを押すと、このファース塔についての音声説明が流れ出すしかけになっている。
 これらの展示物によれば、ファースは1855年頃にヨークシャーからニュージーランドに来たらしい。
 オークランドのビジネス界で主要な人物になり、オークランドには、マタマタにあるこの塔と同じような塔ともに、彼の家がイーデン山の坂に建っているという。ファース自身はマタマタには住まなかったようだが、マタマタには足しげく通ったようだ。
 1887年には、この不動産はニュージーランド銀行(Bank of New Zealand)に引き継がれ、のちにジョン=マッコー(John McCaw)というマネージャーに管理が委ねられることになったようだ。
 その私邸の内部に入ると、このスコットランド系のジョン=マッコーの台所や居間、子ども部屋などが見事に再現されていて、ここでも壁際のボタンを押すと、スピーカーから音声説明が流れ始めるしかけになっていた。
 このファース塔歴史博物館(Firth Tower Historical Museum)の設立は、マタマタ歴史協会(the Matamata Historical Society)の貢献によるものらしい。
 おそらく地元の教師たちや郷土歴史家を中心とする歴史研究団体であろう。博物館のお披露目のときの写真や報道記事が無造作にテーブルの上に置かれて、閲覧できるようになっている。
 ファース塔歴史博物館の敷地内には、こうした塔や私邸の他に、教会や学校、郵便局、農作業に使う器具や納屋、牢獄までもがあちこちに置かれている。

http://www.matamata-info.co.nz/firthtower/

 マオリのチーフであったタミハナの石塚も、教会のそばにひっそりと建っていた。
 受付の女性の説明では、このタミハナというマオリは、マオリキング運動(Maori King Movement)の際に、自分自身は王(キング)にならなかったが、王(キング)擁立のために尽力した人物であったが、白人からは理解されずに悲運のうちに亡くなったという。
 イングランド系のファースという実業界の人物が、なぜマオリ語に堪能だったのか、何故マオリから尊敬を受けていたのか、残念ながら、展示からはうかがい知ることができなかったが、当時の雰囲気を知ることができたのは、貴重な体験だった。
 帰りにマタマタの町を少し歩いて、とあるカフェで、チーズケーキとカプチーノを楽しんだ。
 チーズケーキをテーブルに置いて、レジの青年に、「ファース塔には行ったことがある」と尋ねたら、一度もないというので、「マタマタでは有名なのに」と切り出して、彼と話し込んだ。
 この青年はカンボジア出身で、イギリス語を学びにオークランドに来て二年くらいになるという。家族はカンボジアにいて、彼一人の生活だから、寂しい暮らしですと彼は言った。たまたまマタマタに住んでいるおばさんのところに、遊びがてら、手伝いに来ているようだ。
 そのカンボジア出身の彼のおばさんが、両手を振り上げているので、何かと思ったら、小鳥が私のチーズケーキを狙っているのであった。
 マタマタはなんとものんびりしたところだ。

*1:Firth, Josiah Cliftonについては、以下のサイト「NZ人物事典」に詳しく掲載されているので、findで名前を入力し、参照のこと。http://www.dnzb.govt.nz/DNZB/

*2:Wiremu Tamihanaについては、私は未読だが、'Wiremu Tamihana'(ISBN:1877266922)という本が出版されている。http://www.huia.co.nz/publishers/full.php3?ID=240  なお、タミハナの綴りだが、'The Waikato War of 1863-64'(Neville Ritchie)によれば、Tamehanaとなっていて、いくつかの綴り方があるようだが、ここではTamihanaとした。

*3:マオリ側の視点からすると、今日なおマオリ土地戦争は終結していない。法廷闘争で、現在、土地変返還運動をしているのが、そのことを雄弁に物語っている。この視点は後日知ることとなった。

*4:このワイラウ虐殺事件は、南島で起こった唯一の大きな武力闘争としても、有名である。

*5:先の注でも書いたように、これは白人側の視点に過ぎない。マオリ側からみれば、今日なおマオリ土地戦争は継続している。さらに、このマオリ土地戦争という名称だが、正確にはニュージーランド戦争と呼ぶべきだという意見が今日主流のようだ。