いつも痛感するのは、アメリカの美術館の、その量と質の豊富さである。
ゲティでは、とくに、ギリシャ関連の収集品がすごい。紀元前300年とか400年の美術品がごろごろしている。こうした量の展示品から、ギリシャ社会の生活が垣間見えるようだ。
実際、ギリシャがいかに奴隷社会であったことなどがつぶさにわかるし、ギリシャ人が使ったコマなどの遊び道具や、それから学校の様子も、理解しやすく整理されて展示されていた。
鑑定員が、よくグループ訪問者に対して説明していた。
ゲティは、社会教育の場としてきちんと位置づけられているようだ。
いつも思うのだけれど、質を高めるには量がないとダメだ。
勉強でもスポーツでも、美術品でも、一定の量がなければ、質は高まらない。これは一般的な法則である。それで、アメリカ合州国のすごいところは、美術品の量を収集できる力量である。
20年以上も前に初めてアメリカ合州国を訪れた際に、3ヶ月ほど北アメリカ大陸を私はバスで移動したことがあるのだけれど、シカゴやニューヨークなどの美術館はすごかった。
ともかく量があるから、展示の仕方が不自然にならない。だから見る方も、順番に見ていくと、頭がすっきり整理される。展示品の量があるから理解しやすいのである。
それで、大体が無料*1。
カフェもあるし、手荷物を預かってくれるクロークもあって、これがまた無料。
ところで、そもそも日本の美術工芸品が、日本よりもアメリカ合州国の方が、より鑑賞できるというのが私には不満であった。なんで日本の美術品を合州国で無料で見ることができて、ありがたく思わないといけないのだ、と。
終戦直後、大量に日本から持ち出されたのだろう。大海賊イギリスと同様に、アメリカ合州国は、世界の美術・工芸品を集めに集めている大海賊だ。
ところが、アメリカ合州国の美術製作となると、私には偏見があって、アンディ=ウォーホールのキャンベルのスープラベルだの、マリリン=モンローだの、毛沢東だのと、例のポップアートくらいしか、世界の美術史の中で合州国が占める位置がないし、実際アメリカ合州国の各地の美術館を訪問すると、壁に椅子を貼り付けたような「前衛」的な作品しか見かけなかったりする。アジアの陶器やヨーロッパの印象派のような大河の流れに入り込むことのできない悲鳴みたいな自己憐憫をアメリカ美術に感じてしまうのだ*2。
今回、ジェニーに同じようなことを話したら、「アメリカ合州国の芸術家にもいいものがあるわよ」と言っていたから、私の無知から来る単なる偏見なのだろうけど、ゲティの印象派のおびただしい量の作品を見ていると、やはりそんな気にさせられる。
いずれにせよ、入場料が無料、クロークも無料。公害対策から、駐車料金は取る。
こうした点こそ、日本はアメリカ合州国から学ぶべきである*3。
また、企業家はゲティのように、社会に還元すべきだ。
篤志家によるこうした社会還元を免罪符にするつもりはないけれど、そういうのが、本来の篤志家と言うべき姿であろう。
日本でこうした篤志家が少ないのは、実に悲しい限りだ。