しょせん外国語には責任が持てない

amamu2006-04-07

 これも昨日、一昨日の話の続きである。
 実際、外国語に対する私たちの心理としては、「憧れ」「無視・嫌悪」といった両極端になりやすく、「対等・平等」「尊重」のような理想的な心理状況になりにくい。いわば両極端の不自然な感情を持つ方が自然であり、理想的かつ自然な感情を持てる方が不自然であるのだ。言い換えれば、かなりの訓練を積まないと「対等・平等」な心理状態になれない。だからこそ、そうした「対等・平等」な姿勢になれるように、教育すべきだというのが今日の教育的課題であるというのが私の持論のひとつなのだが、これは言うが易しで、これを実行することはなかなかむずかしい。(It is easier said than done.)
 一昨年、マオリの子どもたちの前で、私は、覚えたての少しのマオリ語と、母語である日本語、そして人工的に学んだ英語で長く話をしたことがあって、そのときにマオリの子どもたちから「あなたはいくつの言葉を話すのですか」と聞かれた際に、私は「責任が持てるのは母語である日本語だけです」と答えたことがあった。
 母語と違って、しょせん「外国語には責任が持てない」という風に考えることが重要だと私は考えているからだ。
 責任が持てないからこそ外国語と呼ぶのだと言ってもいい。
 外国語学習を安易に考えてもらっては困るのである。