加藤周一氏にとっての宮本顕治氏の訃報

 「戦後すぐの時期に、宮本顕治さんと雑誌で対談したときの印象はいまでも鮮明に思い出す」との始まりで、評論家の加藤周一氏が宮本顕治氏の訃報に接して、次のように述べている。

 宮本百合子が「歌声よ、おこれ」を書いた解放感が社会にみなぎっていた。顕治さんはその渦中の人であり、獄中で非転向を貫いた十二年があったから、ほかの人をはるかに超える解放感を感じたに違いない。それは高みの見物ではなく、一緒にやろうという未来への明るい希望に満ちた解放感だった。
 私の世代はよく知っているが、宮本夫妻の戦時下の往復書簡『十二年の手紙』は、日本のファシズムに対する抵抗の歌である。窒息しそうな空気の中で最後まで知性と人間性を守った記録である。
 歴史的記念碑ともいうべき宮本顕治さんの偉大さは十五年戦争に反対を貫いたことである。それができた人は、日本では例外中の例外だった。宮本顕治と百合子はあの時代にはっきりした反戦を表明し、そのために激しい弾圧を受けた。その経験なしには「歌声よ、おこれ」の解放感は生まれなかったろう。
 武者小路実篤は敗戦で虚脱状態に陥ったと言ったが、それは解放感とは逆方向のものである。宮本顕治・百合子夫妻とこの白樺派の人道作家の違いを表している。
 宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った。戦争が終わり世界中が喜んでいるのに日本人だけが茫然(ぼうぜん)自失状態だった時に、宮本さんは世界の知識層と同じように反応することができた。
 私が対談したときの宮本さんは穏やかで礼儀正しい人だったが、表情は精かんで、修羅場をくぐってきた人の自信と安定感があふれていた・私がこれまで見たなかでもっとも美しい顔の一つだったと思う。

 加藤氏は「私の世代はよく知っているが」と断っているが、私自身は加藤周一氏や宮本顕治氏とは世代が違う。そもそも98歳という高齢で亡くなられた宮本顕治氏と世代的に重なる人は少ないだろう。私も例外ではない。
 読書家でない私は、「歌声よ、おこれ」も、宮本夫妻の戦時下の往復書簡『十二年の手紙』も読んでいない。宮本顕治氏の演説や話も聞いたことがない。
 それでも、「宮本顕治さんは反戦によって日本人の名誉を救った。戦争が終わり世界中が喜んでいるのに日本人だけが茫然(ぼうぜん)自失状態だった時に、宮本さんは世界の知識層と同じように反応することができた」という加藤周一氏の下りは、自分なりに理解できる。
 私がここで言いたいことは、人物評価の話ではなく、歴史認識の問題である。
 知識人の資質の重要なひとつは勇気であると思うが、その点、そうした知識人が存在していたということが重要である。
 問われているのは、戦前の暗黒政治や治安維持法侵略戦争を私たちがどのように評価すべきかという歴史認識の問題に他ならない。