
井上ひさし作、こまつ座の「円生と志ん生」を観てきた。
破天荒な落語名人である五代目古今亭志ん生は、慰問芸人として「満州」に渡る。終戦を迎えたものの、大連で足止めをくい、なかなか帰国できなかった。古今亭志ん生は、いわゆる引揚者の一人なのである。志ん生が再び日本の土を踏んだのは1947年になる。井上ひさしの「円生と志ん生」は、この間の、大連での、志ん生と、一緒に「満州」に渡った円生との物語だ。
何役もの役をこなす女性陣も熱演していたが、なんといっても、辻萬長が演じる円生、それ以上に角野卓造が演じる志ん生が光っていた。
私は志ん生をリアルタイムで聞いた世代ではない。大連から引き揚げてきた志ん生は、今日観た劇で表現されていたように、生死の境をさ迷い、まさに地獄を見る中で、自分のコトバの通じる客に対して、自分のコトバで芸を披露したかったろうと思う。それは、劇中に見事に描かれていたが、「こうしたい」、「ああしたい」と思っても、道半ばで死なざるをえなかった多くの人たちの気持ちが託されたものだ。昭和22年に帰国してからの志ん生は、芸も、人気も、うなぎのぼりだったろう。
志ん生の話芸には、人間というものの本質が見事に描かれている。それは落語の冒頭の「えー、人間というものは」というコトバに端的にあらわれている。それには、「満州」での体験が裏打ちされているのだろう。地獄を見た志ん生だからこそ、話に深みが出る。
修道女のところに転がり込んで、シスターたちが、志ん生をイエスキリストの再来だと勘違いする場面のおかしさは、突き抜けた人たちだけが到達する真理の世界として、共通性が出てくることはありえるから、単なるドタバタの面白さを越えるおかしさになる。
志ん生の芸は、円生などの緻密な芸とは芸風が違うと言われている。わたしは志ん生の芸風と志ん生の話が好きだ。
火焔太鼓、黄金餅、千両みかん、たがや…。
こうした話には、人間の欲や、反権力だが弱い庶民の気持ちが見事に表現されている。
四半世紀以上も前に初めて私がアメリカ合州国を訪れて半年ほど滞在することになったとき、私の旅行鞄には志ん生のカセットテープが五本入っていた。
今年の夏、大連を訪れ、引揚者はこの港から日本に帰ってきたのだと大連港をこの眼で確認してきたことも、今夜の劇に感銘を受けた一因かもしれない。