井上ひさし作「闇に咲く花」を観た

闇に咲く花

 井上ひさし作、栗山民也演出のこまつ座公演「闇に咲く花」を観てきた。
 この舞台を見るのは、2回目。
 さまざまな要素が織り成してドラマが展開していくのだが、テーマのひとつに、神道があり、神社という場をめぐっての対立・葛藤が描かれる。たとえば、キリスト教には、キリストという始祖がおり、バイブルという経典がある。仏教には、釈迦という始祖がいて、お経がある。回教には、モハメッドという始祖がいてコーランがあるというくだりで、神道には始祖も経典もない。しかしながら、神社という場において、そこには、庶民の願いと、無謀な戦争へと駆り出され利用されていった国家神道との対立が戦前・戦後にあったというようなことが表現されていく。
 一人ひとりかけがえのない人間であり、ひとつとして軽んじてよい命などないということは自明のことだが、なかなかそうはいかないのが悲しく厳しい現実。それでも、私たちは冷酷な現実の中で生きていくしかない。
 牛木公麿役の辻さん、牛木健太郎役の石母田さん、稲垣善治役の浅野さん、遠藤繁子役の増子さん、田中藤子役の山本さん、中村勢子役の藤本さん、久松加代役の井上さん、小山民子役の高島さん、鈴木巡査役の小林さん、吉田巡査役の北川さん、諏訪三郎役の石田さん、ギター弾きの水村さん、大樹さんらの熱演によって、戦前は参謀本部直属らしき人間も登場するが、普通の庶民たちが戦前・戦後の空気を吸いながら、愛敬稲荷のかぐら堂の昭和22年が表現されていく。
 ついこのあいだ起こったことを忘れてはだめだ、忘れたふりはなおいけない、過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗い、なぜなら同じ失敗を繰り返すにきまっているから、というようなことを劇中、健太郎が語る。
 そのセリフを2011年3月11日の福島第一原発事故と重ね合わせて聞いた者は、俺だけではあるまい。
 井上ひさしさんの劇は、浅草時代のコントや「ひょっこりひょうたん島」時代の比較的単純なものから、テーマはシンプルであっても、セリフとしてはどんどん複雑なものへと進化したに違いない。
 『「闇に咲く花」は、井上さん自身が作家として変化した転機の作品だと僕は思っている。初期作品は奇想天外な劇構造や演劇的テクニックを駆使し、芝居の面白さを表現していることが特徴として挙げられるが、今作は終幕まで場所も変わらず、人間同士の交流とそこで起きる変化だけでドラマをぐんぐん前へと走らせていく」と演出家の栗山民也さんも語っている。
 「闇に咲く花」は、実に深さのある作品に仕上がっている。井上ひさしさんの戯曲づくりへの執念と、舞台作りにかける演出家と俳優さんの仕事に敬服する他ない。