映画「スポットライト」を観てきた

SPOTLIGHT

 映画「スポットライト」を映画館で観てきた。
 これはなかなかの映画だ。
 "From the Pulitzer Prize-winning investigation"とあるように、ボストングローブ紙(The Boston Globe)によるスクープという実話(based on a true story)をもとにしてつくられている。
 ボストンは、大昔に訪れたことがある。
 独立革命ゆかりの地で、フリーダムトレイルも歩いた。 
 MLBでは、ボストンレッドソックスの本拠地でもある。
 ボストンは、アイルランド系とイタリア系が多いから、カトリック教徒が多い。

 カトリックは、懺悔など、教徒と司教(priests)との距離感も近いのだろう。
 距離感が近過ぎると、人間というものは、ろくなことはない。それが大人と子ども、親と子ども、司教と教徒という権力構造の中での関係なら、なおさらである。支配・隷属、性的虐待(sexual abuse)などが起こりやすくなってしまうこともあるだろう。教育も同様である。距離感が近いことは、リスクが生じる。教師と生徒、親方と弟子などの体罰構造も相似形であろう。人権は常に守られなければならないものであるのに、権力構造を利用する輩が後を絶たない。あるいは、権力構造から、勘違いが起こる。

 映画のパンフレットを読んで、ニューヨーク州立大学のジョン・ジェイ刑法カレッジが「アメリカの司祭と助祭による性的虐待問題の性質と範囲」という調査報告のことを知った。
 
 冒頭で紹介したように、映画「スポットライト」は、ボストングローブ紙のジャーナリストたちの仕事をもとにした物語である。
 ユダヤ*1の新しい編集局長のバロンが着任してからさまざまな動きが始まるのだが、映画の展開には説得力がある。
 とりわけ印象に残ったことは、組織的に隠ぺいされる権力構造がありながらも、観察眼と洞察力があれば、もっと早めに問題を暴くことができたということだ。それは、かなり昔に弁護士から情報提供があったのに取り上げることができなかったというウォルター・ロビー・ロビンソンのジャーナリストとしての後悔にあらわれていた。問題を問題として認識し、問題を問題として解決することが、簡単なようでいて、実はそれが一番難しいということを表現していた*2
 もうひとつ印象に残った場面は、被害者からの聞き取りの際に、サーシャ・ファイファーが、一般的な表現でなく、具体的に述べてほしいという指示をだしていた場面だ。ことばで闘うジャーナリズムという仕事の日常を感じた。
 子どもへの司教による性的虐待(sexual abuse of minors)。
 「犠牲になった者はあなたであったかもしれない(It could have been you.)」あるいは、「自分であったかもしれない(It could have been me.)」というマイク・レゼンデスのセリフも同様だ。ジャーナリズムがジャーナリズムでありえる原点だろう。

 映画「スポットライト」は、仕事というものは、こうでないといけないという手本も示してくれる。
 ジャーナリストとしての仕事としてもそうだが、映画づくりという仕事にしても、仕事というものはこうでないといけないというお手本である。
 トム・マッカーシー監督。ジュシュ・シンガー脚本。マーティ・バロン役のリーヴ・シュレイバー。ウォルター・ロビー・ロビンソン役のマイケル・キートン。マイク・レゼンデス役のマーク・ラファロ。サーシャ・ファイファー役のレイチェル・マクアダムス(Rachel McAdams)*3。ミッチェル・ガラベディアン役のスタンリー・トゥッチらが好演している。
 第88回アカデミー賞の作品賞・脚本賞受賞作品。

*1:ユダヤ系ということで、鑑賞中に俺はPaul Simonの唄Me and Julio Down By the Schoolyardを思い出していた。

*2:カトリック司教による性的虐待については、ボストングローブがスクープする以前からテレビ番組などでも指摘されていた。カトリック聖職者スキャンダルも、本格的に取り上げられなかった話のひとつに過ぎないといえよう。

*3:レイチェル・マクアダムスは、「アバウト・タイム」に出演している。ラブコメディのこの映画も秀作。