青年劇場創立60周年記念公演「失敗の研究ーノモンハン1939」を観てきた。難しい作品を俳優陣がしっかりと演じていた。無謀な戦争を防ぐには何が必要となるのか。ジェンダー問題も織り込んで追求した劇だった。
今尚繰り返される、取り返しのつかない失敗から教訓を引き出そうとしない致命的な大失敗!
観劇後、むかし読んだ田中克彦「モンゴル ー民族と自由」(岩波書店)(1992年)を書棚から引っ張り出して、「Ⅱ 忘れてはならない、ノモンハン・ハルハ河戦争」の箇所を再度読み返してみた。さすが言語学者・田中克彦氏だとあらためて感じた*1。
日本でノモンハン「事件」(1939年)と呼ばれる戦争はモンゴルではハルハ河戦争と呼ばれている。1969年に田中克彦氏は以下のように書いている。
しかし「ノモンハン事件」と「ハルハ河会戦」という呼び名のちがいに現れているように、彼我の認識には大きなずれがある。これは単に同一のできごとの異なる名称ではない。(中略)モンゴル人の眼を通して見た「ハルハ河会戦」は、われわれの歴史年表に、目立たず印刷された「ノモンハン事件」とはまるで異なる性質のものだ。このことがよくわかっていないで、現代モンゴルは理解されず、ましてや「日本とモンゴル」を論ずる資格もないと感じるようになった。
(「モンゴル ー民族と自由」p.107-p.108)
田中克彦氏は、「せんさくのためのせんさく」を意図して「ノモンハン」とは何かを考証しているのではないと自己弁護する。重要なことは、「ノモンハン」が何であるか、日本側の認識がきわめてあいまいであり、また「ノモンハン」とは何か、日本側が一度たりとも説明していないことにあると氏はいう。
日本が主張する国境線は、ハルハ河という自然のめじるしによって明確に理解できるのに対して、モンゴル側の主張に関しては、「モンゴル側はハルハ河から約二〇キロ東側のノモンハン付近を国境として主張していた」(坂本論文)というように、日本の著者たちはひどくぼんやりしたものとして表現しているからである。
(「モンゴル ー民族と自由」p.112)
そもそも「ノモンハン」とは一体どこなのか。
モンゴル側の記録と極東国際軍事裁判でのモンゴル人の証言によれば、ノモンハン・ブルド・オボという山の山上にモンゴル人にとって重要なオボーと呼ばれる石の堆積(塚)があるという。これらオボーは8キロ~10キロ間隔で並び、それらを結んだものが古くから国境線として示されモンゴル側にはモンゴル人民共和国とモンゴル語で書かれていたようだ。さらにオボーとオボーの間には1キロ~1.5キロ間隔で杭も打たれていたという。東京法廷では証拠書類として提出された東中佐の地図にはモンゴル側が主張する通りの国境線が引かれていた。
こうして言語学者は次のように述べる。
「ノモンハン事件」は、少なくとも「事件」ではなかった。このことばの持つニュアンス、 ーいずれにも罪のない偶発的なもめごとー とは、およそ異なる性質のものであって、ノモンハンの小さなオボーだけをめぐる紛争ではなかったし、辻が発見したというノモンハン部落をめぐる紛争でもなかった。「東洋およびアジア全体を」席巻しようという野望をもつ日本軍部が、ハルハ河畔一帯にわたってしかけた大きな挑発であった。少なくともソ・モ側の兵力が敵するものでなければ、モンゴル政府の首脳がいうように、今日、モンゴルの独立はなく、第二の満州になり下がっていたにちがいないのである。
(「モンゴル ー民族と自由」p.121)
いまハルハ河畔のかつての激戦地は、いまは小麦が収穫され、ブドウ畑が丘をいろどっているといわれる。モンゴルといえば、ジンギスカンを思う代わりに、「ハルハ河」を想起しなければならないのではないかと、1962年の段階で強調され、「喉をうるおす一滴の水もなく息たえた日本人たちの眠るこの地を訪れ、不戦を誓いあえる日もきっとやってくるであろう、少なくともそうさせたい、と「ノモンハン」を知らぬわれわれの世代は思うのである」と、田中克彦氏は1969年の雑誌「世界」11月号に掲載された一文を結んでいる。
その22年後、同じく雑誌「世界」に、氏は、「「ノモンハン」は、その当時からそうであったが(中略)軍事専用の地名になってしまい、他のいっさいの人間生活の背景から切りとるはたらきをしている…」と述べ、「「ノモンハン」は「法王様」とか「えんま様」とか訳すことばであって、地名として用いるのは異様である」と言い切っている。
モンゴル語もロシア語も読めるこの言語学者によれば、「日の丸高地」「ヒョータン砂山」などの軍用地名は別にしても、旧ソ連軍・モンゴル軍、そして日本軍の記録を突き合わせて読もうとするとき「まず出くわす当惑は、双方で出てくる地名がめったに一致しないということであった」という点にある。「戦争は本来国際的なものであって、一国だけで行うものではない。ところが、五味川純平氏のものも含めて、日本における「ノモンハン」研究書のほとんどが、主として日本軍の内部だけのうちわ話にとどまっている。(中略)あたかも私小説を読まされているような感じさえする」と。
さて、あいも変わらず、鏡に映る自分の姿しか見ようとしない、内向きで、それも、うっとりと見惚れている日本。
それが、近年では、「記録」も「記憶」もないことが常態に。
日本学術会議任命拒否問題*2に象徴されるように、学問研究は軽視・無視。
これでも、まだ幸せになれると考えているとしたら、それはよほどおめでたい民族ではないだろうか。
青年劇場の「失敗の研究ーノモンハン1939」は、モンゴルを、存在しているのに見るべき存在として認識できていない自己中心的な存在(日本)と、言語学者による学問研究の重要性をあらためて教えてくれた。
*1:言語学者・田中克彦氏の著作は少なくないが、ベストセラーとなった岩波新書の「ことばと国家」をはずすわけにはいかない。「ことばと国家」田中克彦 (1981)を読んだ - amamuの日記 (hatenablog.com)
*2:日本学術会議任命拒否問題については、以下、書いたことがある。日本学術会議の新会員任命拒否問題:もはや「これまでですな」(室戸半兵衛)<映画「椿三十郎」> - amamuの日記 (hatenablog.com)。