イングランドとスコットランド

 バラ園から池の方に向かうと、ハミルトンガーデンの池には、何ともかわいらしい子鴨をたくさん引き連れた親鴨がいた。ベンチに腰かけ、クッキーで日本茶を飲んでから、車の方に戻った。
 駐車場で自分の車にキーを入れてドアを開けると、先ほどのジュディスが近づいてきた。「コーヒーでもご一緒しようかと会場で探したのですけど、いらっしゃらなかったわね」と彼女が言ったので、車のドアを開けっ放しにして、また話が続いた。
 ジュディスは、セミリタイア状態で、病院関係に勤めているという。ヘンリーも、飼い犬を連れて、私たちの話に参加しに近寄ってきた。ニュージーランド人は、本当に猫や犬が好きだ。
 彼らはスコットランド(Scotland)のエジンバラ(Edinburgh)出身だという。エジンバラといえば、スコットランドの牙城だ。
 私は「イングランドスコットランドは、いわば歴史的に宿敵ですね」と、話を持ち出した*1。こういう話を私が言うと、通常は、それは昔の話と否定されるが、彼らは、「そう、子どもの頃は、イングランドを憎むように親に躾けられたわ」と言った。「そいつは、いい」と、私は大笑いをして、次のような話を紹介した。
 その昔、考古学者でもあったN=G=マンローというスコットランド系の医者がいて、北海道のアイヌ民族が、このマンロー氏に大変世話になった。彼は結局帰化日本人になったのだが、北海道の二風谷に彼が永住する決意で横浜から移ってきたのは、1931年、「満州事変」が起こされた年で、山本宣治代議士が暗殺された暗い時代だった。
 アイヌ語存続に情熱をかたむけ続けてきた萱野茂氏が、そのお礼を言うために、N=G=マンローの子孫に会いにはるばるスコットランドまで出かけ、マンローの魂をアイヌ式に供養するという萱野氏の旅を紹介した番組があって、私はこれを感動もって観たのだが、スコットランドが宿敵イングランドから攻められ、スコットランド語が言語弾圧を受けたというのは有名な話だ。イングランド人からみれば、スコットランドハイランダーズなどは野蛮人としてさげすまされていたのである。
 これはマンロー氏の子孫が言っていたのだが、イングランドにいじめられ、スコットランド語も弾圧を受け、そういう悲惨な境遇に置かれたスコットランド人であったからこそ、日本の少数民族であるアイヌ民族に対しても同情を禁じえなかったのではないかと発言していた。
 スコットランド系に会うと、いつも私は、イングランドとの関係を話すのが常なのだが、スコットランドイングランドの仲の悪さを肯定されたのは今回が初めてではない。
 ジュディスもヘンリーも、エジンバラを後にしたのは、30年も以上の話らしいから、昔の両親の躾が思い出として残っているのだろう。彼らがエジンバラに今も住んでいたら、おそらく「それは昔の話よ」と言ったかもしれない。
 「パイパー(piper)の響きを聞くと、心が騒ぐのだけれど」と言うと、ジュディスは「それは、あなたにスコットランドの血が流れているのよ、きっと」と真顔で言った。これは全くの冗談で、私の中には、ひょっとしてアイリッシュの血が流れているのかなと思ったことはあるけれど、イングランド憎しという点では、きっとスコットランドの血も流れているのかもしれない。
 ジュディスは、「あなただったら、友達がいないっていうことはないと思うけど、何かあったら連絡して下さいね」と言って、電子メールや電話番号を交換して別れた。
 これで、電話し合って交流するっていうのが、別に特別なことじゃなくて、普通のニュージーランド流なんだろうね。
 4月にオーストラリアはクイーンズランド州にあるラミントン国立公園を訪れた際に、たまたまメルボルン出身の元教師夫婦に出会ったが、彼らもこんな風だった。
 大体私のように、夫婦単位、カップル単位で行動してない奴なんて、ニュージーランドじゃ普通じゃない。いや、アメリカ合州国でも、オーストラリアでも、アイルランドでも、どこでもカップルが普通で、一人旅している奴なんて、ちょっと変わった奴に違いない。
 交流の仕方は、多少ニュージーランド風に近づき、慣れてきたけどね。

*1:スコットランドイングランドに併合される「併合法」が結ばれたのは1707年のこと。